ニクソンとトランプ。半世紀を隔てた2人のアメリカ大統領の共通点とは
2020年07月05日
現代という混迷の時代をどう読み解くべきか。様々なアプローチがあるが、このコラムでは、書物の世界にヒントを求めてみよう。東西の古典、埋もれた名著、意外な著者の意外な本……。ジャンルを問わず、現代史の流れを読み解く補助線を探していく。初回のテーマは、半世紀前に人種対立をあおる政治戦術を打ち出し、今日の分断社会アメリカへの流れを生んだニクソン大統領の政治である。
半世紀前に、リチャード・ニクソン(1913年生まれ、1994年死去)というアメリカ大統領がいた。ライバル民主党の全国委員会本部に対する盗聴事件とそれをもみ消そうとしたスキャンダル(ウォーターゲート事件)で、任期途中で大統領辞任に追い込まれた。ホワイトハウスでの会話をひそかに録音していた秘密主義、権謀術数を好む性格……悪の典型のように描かれることが多い人物である。
だが、ニクソンは同時に、フランクリン・ルーズベルト大統領以来のリベラルな政策にストップをかけ、また保守的な白人中間層に働きかけることで、長年民主党の地盤だったアメリカ南部を共和党の地盤に転換させた戦略家でもあった。ニクソンは、人種対立をあおる今のトランプ大統領につながる源流なのだ。
今回取り上げる『ニクソンのアメリカ』の著者松尾文夫は、1960年代から80年代にかけて活躍した共同通信の特派員である。松尾はニクソンが当選した1968年の大統領選を担当し、そのリポートを踏まえて1972年に上梓したのが同書である。
ジャーナリストの仕事は、しばしば歴史の最初の草稿を書くことだと言われる。優れた現場報告は、後の歴史家たちにとって重要な素材を提供する。だが、まれにそのリポート自体が、読み返すに値する作品として残る。『ニクソンのアメリカ』はそういう特派員報告のひとつである。
ニクソンとトランプ。半世紀を隔てた2人の大統領の共通点を読み解くカギは、ニクソンが展開した「南部戦略」にあった。
アメリカ南部を訪れる人は、ワシントンやニューヨークなど、日本人におなじみのアメリカとはまったく違う風土に驚くだろう。照りつける太陽、ゆったりとした南部なまりの英語、南北戦争以前の過去と伝統への強いあこがれ。それは歴史の所産である。
奴隷制に基づくプランテーション農業で繁栄し、貴族的な白人支配階級が存続した南部は、工業地帯の北部とまったく異なった発展をしてきた。南北戦争後もその地域差は残った。独特の社会体制と文化を持つこの南部をどのように政治的に攻略していくかは、歴代のアメリカ大統領にとって大きな課題だった。
ニクソン大統領以前、南部では共和党は忌み嫌われる存在だった。南部人にとって共和党とは、何よりも奴隷を解放したリンカーンの党だったからだ。
南北戦争後も、白人支配層は実質的に残った。南部政治を支配した民主党は、隔離政策を維持し、黒人の政治参加を拒み続けた。北部で大都市貧困層やマイノリティーの味方だった民主党は、南部では全く別の顔を持っていたのだ。
だが、1960年代にその民主党のケネディ、ジョンソン両政権下で黒人差別を是正する公民権法の制定が進められると、南部における民主党の支配は大きく揺らぎ始めた。そこにくさびを打ち込んだのがニクソンだった。
第2次世界大戦後、安価な労働力が豊富だった南部は、軍需産業を中心に飛躍的に発展する。それとともに北部から白人の中産階級が南部へ大移動した。この白人人口の増加は、アメリカ全体における南部の政治的発言力の向上を意味した。この新しい南部をつかむために何が必要なのかをニクソンは考えた。
黒人のほとんどは公民権法を推進する民主党に投票する。「共和党は白人党でいく、民主党は黒人党になればいい――というのがそもそもの発想である」(岩波現代文庫版、154頁)と松尾は「南部戦略」を喝破する。アメリカでの黒人差別の根は深いが、これだけはっきり一線を引いたのは珍しいことだった、と著者は断じる。
ここまで読んできて、いかがだろうか。まるで現在のトランプ大統領の本音を聞いているようではないか。トランプ氏が白人至上主義者の暴力を非難することを極力避けようとし、白人警官の暴力で亡くなった黒人のジョージ・フロイドさんへの追悼の言葉を惜しむ姿に、かつてのニクソンが重なって見える。
だが、この戦術は21世紀にも通用するのだろうか。
『ニクソンのアメリカ』でニクソンの「南部戦略」を詳細に分析した松尾文夫は、同書が岩波現代文庫で復刊されるのに合わせて、「トランプとニクソン」という付章を書き下ろした。その中で、著者はニクソンとトランプの共通点を次のように記す。
ひとつは、深いコンプレックスと強烈な自己顕示欲である。もうひとつは、両者とも社会の亀裂を前提として政治戦略を組み立てていることだ。特定の選挙民を自らの支持層として囲い込む戦略である。ニクソンの場合もトランプの場合も、白人中間層あるいは中下層に焦点をあて、暗示的に人種カードを使って、社会の分断を利用した。
ただし松尾は、トランプ大統領が囲い込もうとする白人労働者はグローバリズムから取り残された集団であり、かつての「南部戦略」が持っていたアメリカ政治のインフラを作り替えるような壮大なビジョンが、トランプ氏にないことを指摘する。
このトランプとニクソンの比較論は、著者松尾が2019年2月に訪問中のアメリカで病死したため、惜しくも草稿のまま終わっている。もし、著者が存命で今のアメリカの「黒人の命も大事だ(Black Lives Matter)」の抗議活動を見たら、何を書き加えただろうか。これは想像の域を出ないが、ニクソンが始めた南部戦略が生んだ「共和党多数派の時代」の終焉を語ったかも知れない。
以下は筆者の私見だが、アメリカの人口動態という視点から、共和党の盛衰を語ることが可能だろう。ニクソンが着目したのは、第2次世界大戦後に産業化が進み、白人人口が急増した南部がアメリカ政治の潮流を変える可能性である。
白人中間層に狙いを絞った「南部戦略」は、当時は確かに効果が大きかった。しかし、そのアメリカでは現在、ヒスパニック、アジア系、黒人など、かつての少数派が人口比で増え続け、2045年には白人が少数派に転落するという予測がある。トランプを支える白人層には、そうした少数派への転落の恐怖が間違いなくあるのだ。
6月25日に公表されたニューヨーク・タイムズ紙の世論調査では、民主党のバイデン氏の支持が50%なのに対して、現職のトランプ氏は36%で、差は14㌽に開いた。コロナ禍が続く中で、人種の違いをあおって自らの基盤である白人層だけに頼るトランプ戦術は壁にぶつかっている。多様性を重んじるリベラルに、単純に数で勝てなくなっているのだ。
トランプ大統領が再選に失敗すれば、それは単なるトランプ個人の敗北にとどまらない。ニクソンの「南部戦略」に始まる共和党多数派時代の終焉を意味するかもしれない。人口動態の新たな大きな波が、アメリカの政治地図を塗り替えようとしている。
『ニクソンのアメリカ』
1972年4月にサイマル出版会から単行本『ニクソンのアメリカ』として刊行された。2019年10月に岩波現代文庫から『ニクソンのアメリカ アメリカ第一主義の起源』(1620円+税)として復刊。旧著の一部を割愛し、著者がその後発表したニクソン関係の論文や現代文庫のための新たな原稿を収めている。解説は西山隆行・成蹊大教授。
松尾文夫(まつお・ふみお)
1933年生まれ。祖父は2・26事件で岡田啓介首相の身代わりとなって殺された松尾伝蔵大佐。学習院では平成天皇のご学友のひとりであった。共同通信社のニューヨーク、ワシントン各特派員(1964~69年)、バンコク支局長(1972~75年)、ワシントン支局長(1981~84年)などを歴任。共同通信マーケッツ社長などを経て、2002年にジャーナリスト復帰。著書に『銃を持つ民主主義』『オバマ大統領がヒロシマに献花する日』など。2017年度の日本記者クラブ賞受賞。2019年2月、日本とアジアとの和解をテーマにした取材で米国訪問中に客死した。享年85歳。
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