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TOKIO、V6、KinKi Kids、ジャニーズの群雄割拠時代へ

太田省一 社会学者

 前回まで、新たな「不良」アイドルのかたちとしてDA PUMPやEXILEといったダンスパフォーマンスをフィーチャーしたグループの台頭をみてきた。一方同じ時期、ジャニーズからはSMAPが切り開いた新たな道を追うように多彩なグループが次々とデビューし、群雄割拠の時代へと向かう。今回は、その様子を改めて振り返ってみたい。

ジャニーズ事務所=東京都港区拡大ジャニーズ事務所=東京都港区

バンドの系譜を継いだTOKIO

 SMAPのデビューに至る経緯について述べた際、ジャニーズJr.のグループとして「平家派」の存在にふれた。そこに所属していたのが、城島茂と山口達也である。この2人が組んだバンド形態のユニットに、ジャニー喜多川は「TOKIO BAND」と命名した。

 その後、城島を中心として国分太一、松岡昌弘、小島啓の3人を加えた「TOKIO」が結成される。そこに山口達也が再合流、そして長瀬智也がサポートメンバーとして加入。その5人ないし6人編成での変則的活動がしばらく続いた。

 結局、ライブなどでは6人だったりしたものの、1994年9月のCDデビューの際には小島以外の5人が正式メンバーとなっていた。デビュー曲は「LOVE YOU ONLY」。オリコン週間シングルチャートでは3位を記録。さらに同年の『NHK紅白歌合戦』にこの曲で初出場した。デビューからわずか3か月余りでの出場は当時の記録だった。

 以前、たのきんトリオの野村義男のところでもふれたように(「野村義男、たのきんトリオのジャニーズ史的意義」)、TOKIOはTHE GOOD-BYEや男闘呼組などのジャニーズにおけるバンドの系譜を継いでいた。なかでもTOKIOは、デビューから『紅白』に24年間連続出場したように息の長さが光る。

 その点、ロック系ではない歌謡曲やニューミュージックの作家の楽曲でヒット曲を出したことも大きかっただろう。彼らの代表曲と言えば、「AMBICIOUS JAPAN!」(2003年発売)と「宙船(そらふね)」(2006年発売)を思い浮かべるひとも多いはずだ。JR東海のCMソングにもなった「AMBICIOUS JAPAN!」は作詞がなかにし礼、作曲が筒美京平という歌謡曲黄金期を担ったコンビ、長瀬智也主演の人気ドラマ『マイ☆ボス マイ☆ヒーロー』(日本テレビ系)の主題歌だった「宙船(そらふね)」は詞・曲ともにシンガーソングライターの中島みゆき。いずれもオリコン週間シングルチャートで1位を獲得した。

 それと並んで、彼らが大衆的人気を集めるのに寄与したのが冠バラエティ番組の成功だった。歌とバラエティの二本柱でアイドルとしての地位を確立していく活動スタイルは、いうまでもなくSMAPが先駆けとなり、ジャニーズグループにとってひとつの“公式”になったものだった。

 ただ、バラエティと一口に言っても幅は広い。SMAPが歌ありコントありトークありの本格バラエティだったとすれば、TOKIOが活路を見出したのは、自ら体を張るロケ中心のバラエティだった。

 現在も続く彼らの冠バラエティ番組『ザ!鉄腕!DASH!!』(日本テレビ系)がスタートしたのは、1995年。最初は深夜枠でスタジオトーク中心の内容だった。

 だが1998年に日曜夜7時に移動すると、5人がリレーで駅から発車する電車と競走するといった斬新なロケ企画で人気が高まっていった。

 そして番組の地位を確立したと言えるのが、2000年から始まった「DASH村」の企画である。広大な土地をTOKIOの5人が地元の人びとの協力を得て一から開拓していくという内容は、先人の知恵を紹介しつつ自給自足的な生活を実践する面白さだけでなく、農業や大工仕事などへのメンバーの打ち込み具合、その上達ぶりも感動を呼んだ。


筆者

太田省一

太田省一(おおた・しょういち) 社会学者

1960年、富山県生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得満期退学。テレビ、アイドル、歌謡曲、お笑いなどメディア、ポピュラー文化の諸分野をテーマにしながら、戦後日本社会とメディアの関係に新たな光を当てるべく執筆活動を行っている。著書に『紅白歌合戦と日本人』、『アイドル進化論――南沙織から初音ミク、AKB48まで』(いずれも筑摩書房)、『社会は笑う・増補版――ボケとツッコミの人間関係』、『中居正広という生き方』(いずれも青弓社)、『SMAPと平成ニッポン――不安の時代のエンターテインメント 』(光文社新書)、『ジャニーズの正体――エンターテインメントの戦後史』(双葉社)など。最新刊に『ニッポン男性アイドル史――一九六〇-二〇一〇年代』(近刊、青弓社)

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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