肩の力を抜いたラブコメの佳品
2020年07月10日
コロナ禍で心も体もなまっている7月3日、新宿のシネコンで御年84歳のウディ・アレン監督の新作、『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』を観たが、新作といっても2017年に撮られた映画だ。
周知のとおり、ウディ・アレンは1992年、当時交際相手だった女優ミア・ファローの養女への性的虐待容疑で訴えられ、証拠不十分で不起訴となるも、2018年に例の#MeToo運動が過熱するなか養女らから再告発され、加えて米アマゾン・スタジオが本作を含むアレンの4作品の配給契約を破棄し、それに対しアレンは同社を提訴(のち和解)……という係争(けいそう)の泥沼化により、3年前に完成していた本作もお蔵入り状態になっていたが、ようやく昨年(2019年)秋からヨーロッパ各地で公開されると良好な興行成績を上げ、そして先日、日本でも封切られた次第だ(私が観たのは21時からの遅い回だったが、感染予防のため前後左右に1席ずつ間隔を空けた館内の客の入りは上々で、スキャンダルもなんのその、アレン人気は根強いと実感した。ただし、本作はアメリカ本国では現時点でも未公開)。
そんな曰く付きの『レイニーデイ』は、才人アレンが肩の力を抜いて余裕しゃくしゃくで早撮りした92分の古典的ラブコメで、彼の長編50作目にあたるが、このジャンルの法則――とりわけ<偶然>の仕掛け方や行動的なヒロインの設定――を知悉(ちしつ)した者でなければ撮れない軽妙な佳品だ。
舞台はアレンの偏愛する本拠地ニューヨーク。アレンの分身ともいうべき、生粋のニューヨーカーである主人公のギャツビー(ティモシー・シャラメ)は、裕福で文化的ステータスに固執するスノッブな両親の過大な期待にうんざりしている、ちょっとばかり屈折した芸術好きの、しかし未(いま)だ何者でもないモラトリアム大学生。
ファッションには無頓着だが、アレン好みのラルフローレンの茶のへリンボーン(杉綾)のジャケットにチノパンツ、というスタイルだ。なお<スノッブ>とは、見栄っ張りで上品ぶった成金などに多い、肩書や物欲に支配され、自分より上位の肩書や財産を持つ者には卑屈になり、持たぬ者を軽蔑する俗物のことで、ギャツビーの両親はその典型だが、むろんギャツビー自身も“ねじれスノッブ”である(アレンの作品ではしばしば、こうした“スノッブをくさすスノッブ”をアレン自身が自虐的に演じているが、そうした人物像は、多少なりとも私たち自身が抱いているスノビズムを、イタ気持ちよく刺激する)。
物語は男女のすれ違いや運命的な出会いを描く定番の恋愛喜劇だが、やたらに深刻めかした“社会派映画”やら、カタツムリのように緩慢に進行するアート系スローシネマ(?)やら、幼児的退行としか思えないアメコミ映画やらが幅を利かす状況のなかで、本作のようなラブコメの王道を行く作品の存在は
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