乗り越えられない階級の壁への抗議がこめられたコミック・ノベル
2020年07月19日
現代という時代をどう読み解くか。このコラムでは、書物の世界にヒントを求め、現代史の流れを読み解く補助線を探していく。ノンフィクションだけでなく、古典や小説などジャンルを問わない。今回は、SFの巨匠H.G.ウェルズの自伝的小説『ポリー氏の人生』を取り上げる。現在も続くイギリス階級社会への怒りをこめたコミック・ノベルである。
そのウェルズの小説で今日評価が高い作品が、自身の出自である下層中流階級をコミカルな筆で描いた『ポリー氏の人生』(高儀進訳、白水社)である。日本では英文学関係者以外あまり知られていなかったが、今年1月に初めての邦訳が出た。人種問題がアメリカ社会の病理とすれば、イギリスの社会問題の根にあるのは階級である。『ポリー氏の人生』が刊行されたのが1910年。1世紀を経て、階級社会イギリスは変わったのだろうか。
ウェルズの小説の世界を探索してみよう。
小説の主人公アルフレッド・ポリー氏は、英国南東部の架空の町フィッシュボーンで個人商店を営む35歳。平均寿命が50歳くらいの当時のものさしでいえば中年である。幼いときに母親を亡くし、服地商の見習いを経て、ようやく自分の店を持った。受けた教育も貧弱で、14歳から働きずくめ。イギリス産業革命と19世紀に急速に進んだ都市化が生んだ中流下層階級の典型である。
それは、筆者ウェルズの実人生でもあった。ウェルズの父親は陶器とクリケットのバットを扱う店を営んでいたが、商売がうまくいかなくなると、ウェルズは13歳で丁稚奉公に出された。すでに才能の片鱗を見せてはいたものの学校教育は中途半端で、しかも丁稚の生活は長続きしなかった。服地商や薬局の見習い生活になじめず、家に戻ってしまう。
このつらい下積み体験は、ウェルズの様々な小説の素材となった。『キップス』という作品の中で、服地商の先輩店員は次のような言葉を登場人物の徒弟に浴びせている。
「いいかい、おまえはひでえ下水管の中にいるんだ。おれたちは死ぬまでそこを這いずり回らなくちゃいけねえ」
筆者ウェルズ自身は、幸運にも代用教員から高等教育への道を進み、文筆の才能でその「ひでえ下水管」を脱出した。しかし、小説の主人公のポリー氏は、ずっとその世界を生きた。ウェルズにとっては、ポリー氏はそうであったかもしれない、もうひとりの自分のような存在である。だからこそ、コミック・ノベルでありながら、階級社会への強い抗議がこめられている。
小説のポリー氏は結婚生活に行き詰まり、商売も破産寸前に追い込まれ、自らの人生を「おぞましい穴ぼこ」と呼ぶようになる。その人生を終わりにするため、自宅に放火し、剃刀で自殺する計画を立てた。生命保険と火災保険で、残された妻はやっていけるだろうという算段だった。
首尾よく自宅は火の海になるが、本人はどうしても自殺するだけの決心がつかない。そのうちに近所に延焼し、大火事になる。運命とは不思議なもので、ポリー氏は動けなくなった隣家の老婦人を燃えさかる家から救出し、そのことで町の英雄になってしまう。
このあたりから小説は、(下層階級出身者が様々な冒険を重ねる)「悪漢小説(ピカレスク・ロマン)」の雰囲気を帯び始める。主人公が家出をしたあとの放浪生活については、意外な小説のラスト同様、ここでは伏せておくが、小説の人物造形には、『デイヴィッド・コパフィールド』や『クリスマス・キャロル』などで知られるチャールズ・ディッケンズの影響があるとだけ述べておこう。
ウェルズ自身、後半生はイギリスを代表する国際的な有名人となったが、下層中流階級出身のなまりは一生消えなかったらしい。それを克服するための上品ぶった話し方は、上中流階級出身者から、しばしば軽蔑の対象になったという。
ウェルズは第2次世界大戦終了直後の1946年に世を去った。
その後、戦後のイギリスは労働党内閣のもと、「ゆりかごから墓場まで」の社会保障を充実させた。また奨学金制度を拡充し、労働者階級の子弟でも学力次第で大学に行けるようになった。
だが、ウェルズやポリー氏を苦しめた階級社会は消えたのだろうか。
2010年代にイギリスBBC放送が大規模な階級意識調査を実施した。16万人が参加したこの調査で明らかになったのは、長く続いてきた中流階級と労働者階級との伝統的な区別に代わって、新しい階級秩序が再編されている事実だった。
調査によると、イギリス国民は、世帯所得、貯蓄、住宅といった経済資産だけでなく、文化資本や社会的紐帯なども含めると、七つのグループに分けられるという。すべてを持つ「富裕なエリート」は全人口の6%。最底辺の「プレカリアート」と呼ばれる非正規雇用や失業者たちからなる日々困窮しているグループは15%。このふたつの差異はこれまでにないほど鮮明だが、その間の五つの層の区別はあいまいで複雑だという。
中間の五つの層のうち上の二つは、「確立した中流階級」(25%)と「技術系の中流階級」(6%)で、この二つを中流階級とすると合計で31%。その下に「比較的富裕な労働者」(15%)、「伝統的労働者階級」(14%)、「新興サービス労働者」(19%)の三つのグループがあり、これらを労働者階級とすると合わせて48%になる。
ウェルズやポリー氏の時代に比べて、イギリスははるかに豊かになった。しかし、機会の不平等が富裕層の特権を固定化し、貧困が深刻化している状況は変わらないのだ。
こうした社会グループの壁は、イギリスのヨーロッパ連合離脱をめぐる2016年の国民投票の際も注目された。グローバリゼーションの恩恵を受ける大都会に住むエリートは、圧倒的に「残留」を望んだ。失業に苦しみ、しかも伝統的なコミュニティーが崩壊した地方都市の労働者は「離脱」とくっきり分かれた。100年以上前の小説『ポリー氏の人生』が今でもイギリスで読まれるのは、単なる過去の物語でないのが理由のひとつかもしれない。
とはいえ、コミックノベル(滑稽小説)の伝統の乏しい日本の読者とっては、この小説の世界に没入するためには、やや時間が必要かもしれない。昨今のベストセラー小説のように、最初からハラハラドキドキの連続ではない。
だが、ある時点を過ぎると、読者はいつのまにかポリー氏の人生に寄り添い、最後の意外な場面展開にはしんみりとしてしまう。人生の複雑さや謎をそのまま淡々と描く、いかにもイギリスらしい小説である。高儀進の訳文は、小説のコミックな側面とペーソスの両方を巧みにとらえている。
ウェルズ本人については様々な伝記があるが、現代イギリスきってのコミック・ノベルの名手デイヴィッド・ロッジが著した『絶倫の人 小説H.G.ウェルズ』(高儀進訳、白水社、3200円+税)をすすめたい。破天荒な女性遍歴を含む型破りの人生が活写されている。
『ポリー氏の人生』(高儀進訳、白水社、3000円+税)
ウェルズのSF作品の多くは邦訳があり、今でも広く読まれている。生涯に50を超える小説を書いたと言われるが、自伝的要素の強いこの「ポリー氏の人生」が、作者本人がもっとも満足した作品、一番気に入った作品だと生前語っていた。訳者高儀進は翻訳家、早稲田大学名誉教授。主な翻訳にデイヴィッド・ロッジ『交換教授』や『ジョージ・オーウェル書簡集』など多数。
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