2020年08月07日
「異世界モノ」の人気が止まりません。
中世ヨーロッパ風のたてつけで、魔物や魔法が存在するファンタジー的世界をざっくり「異世界」と呼び、そこに現代日本の知識を持ったまま転移したり、すごい特殊能力を持って転生したりする物語のことを指すようです。異世界に持ち込まれる知識や能力を「チート」と呼ぶのも特徴です。
私もいい歳こいてあっさりハマり、スマホでけっこうな量を読んでしまいました。さらにコミカライズ化されたものまで次々と購読し、中年オタクぶりを発揮させていただいている昨今です。
名著や出版界の話題を紹介していく本コーナー「神保町の匠」でも、私はこの「異世界モノ」を扱いたいなあと願っていたのですが、好タイトルが乱立する現状では1作に絞れず苦しんでおりました。
そこに登場したのが、今回ご紹介するコミック『異世界ソープランド輝夜』(猪熊しのぶ、日本文芸社)であります。
異世界モノのすばらしい企画力に感動しながら読むと、まあ面白いこと面白いこと。
多くの「異世界モノ」では、チートというのは個人に属するものです。生まれながらの特殊能力や現代日本から持ってきた知識で、ズルすなわちチート行為をして大活躍するわけです。
ところが本作は、そのチートが1軒のソープランド・輝夜(かぐや)という「場」に与えられています。剣を振るってドラゴンすら倒す勇者が、生まれてはじめてその「場」に入ってしまったら、どんなことになってしまうのか……。作者の猪熊しのぶ氏は、高い画力と演出力で、この顛末を正面から描きます。その結果、私の大好物が生まれてしまった次第です。
この漫画、各自治体で有害図書と指定される基準はクリアしているようです。「卑わいな描写」は全体のごく一部です。作者はその場面も丁寧に描いていますが、ギャグの演出として解釈できるようになっています。というかギャグになっています。すごい……。そして一般コミック誌で『都立水商!』を人気連載として描き続け、職業としての性風俗業従事者のプライドを示してきた作者だけあって、本作でも性差別・職業差別を正当化する意図はどこにも見受けられません。
「週刊少年サンデー」でデビューしてから25年を超えている大ベテラン作家の猪熊氏が、よくぞこのような「攻め」の傑作を描かれたことだ。すばらしい。これは事情を聞きに行かねば……!
ということでやってきました、栃木県小山市。主要駅からほど近くにある氏の自宅兼仕事場に、鼻息荒く参上して話を聞きました。
――『異世界ソープランド輝夜』を読んで震えました! もう大好きです!
猪熊 そこまで喜んでいただけるとは。
――第1話から、異世界を舞台にした傑作エピソードに爆笑でした! 描き手としての観察力が生きているんですね。
猪熊 ええ、漫画家としてやっていく上で、いまは「異世界」と「ソープランド」というものすごいギャップを利用して、さまざまなネタを投入できるので楽しいですよ。ところで、このインタビュー企画、皆さん野球の話をしているようですが……。
――あ、そういえば本企画は、カープ戦を観戦しながら著者にインタビューする、という趣旨もあるのでした。こちらのテレビで観られるでしょうか。
猪熊 うちはDAZNと契約しているのですが……あれ、カープ戦だけは観られないですね。
――何か事情があるらしく、そういう設定なんですよね。まあ、どうせ観られたとしても今年のカープは……。この辺をボヤいているとキリがないので、切り替えます。猪熊さんが好きな球団の試合にしましょう。
猪熊 ではジャイアンツ戦で。(無観客試合が画面に映し出されて)ビールの売り子もいない客席は違和感がありますね。
――ちなみに私は、いま猪熊さん宅でビールをごちそうになりながら、猫に囲まれて野球中継を観ているところです。極楽です。
猪熊 しかし、まともに野球中継を観るのは何年ぶりか……。選手もガラッと入れ替わってしまいました。原(辰徳)監督だけは昔と変わらないですね。
――もう3回目の監督ですから。でも交際関係にまつわる批判などが報じられています。
猪熊 『異世界ソープランド輝夜』でもいずれケツモチのヤクザを描くつもりですが、そうした清濁あわせのむ、というところがあってもいいと思うのですけれど。最近の現実世界ではそうはいかないのでしょうね。
――社会にある程度そうした雰囲気は残ってほしいかもしれません。それにしても、最近は野球をご覧にならないのですね。漫画家はよく仕事のバックで野球のテレビ中継を流している印象がありましたが……。
猪熊 いいえ、サッカーの試合や映画などと違って、集中して観る必要が少ないので、地上波で野球のテレビ中継があったころは実際に流していた漫画家も多いと思います。私も師匠の原秀則先生の仕事場にいたときはよく観ていましたよ。ただし師匠はアンチ巨人でした。
――数々の傑作高校野球漫画を描かれた原先生の意外な一面が!
猪熊 まあ、一番お好きだったのは競馬なんですけれどね。
――高校野球ではなかったのか……。でも作画資料の意味もあって野球中継を流していたんでしょうね。
猪熊 その通りですね。高校野球といえば、私の母校である県立小山高校に、あの江川卓が入学しかかった、という話を聞いたことがあるんですよ。
――ええっ? どういうことですか。
猪熊 また聞きなので実際の真偽は不明ですが。当時、栃木の県立高校の入試は2日間だったのです。で、江川はその1日目は来ていた。でも2日目はいなかった。そのときに作新学院から声がかかっていたのだ……という話が地元では語られているのです。
――もう少しで猪熊さんは江川の後輩になるところだったのですね。惜しいところでした。
猪熊 でも元スワローズの広澤克実がOBにいますから。私が卒業したあとも2回くらい甲子園へ行ってますよ!
――おみそれしました。猪熊さんはその小山高校を出られたあと、原先生のもとで修行し、1994年に「週刊少年サンデー」でデビュー。代表作の1つ『SALAD DAYS』では短編恋愛モノを週刊連載で3年間も続けました。まさに離れ業ですね。
猪熊 たしかに大変でした……。でも今にして思えば、週刊漫画誌で生き残ろうと努力するのは、プロ野球選手たちの努力に近い面もある気がします。
――雑誌ならではの役割分担、ということですか。
猪熊 そうです。野手も4番打者だけで試合ができるわけではないし、投手も先発から抑えまでいろいろな役割が求められる。同じように、たとえば「週刊少年マガジン」の4番打者が『はじめの一歩』だとしても、それにならってボクシング漫画が3本も4本も載ることはないですよね。週刊漫画誌は、ほかにもショートギャグや私の描いていたような恋愛モノなど、いろいろな企画が同時に載っていないとライバル誌と戦えない。
――なるほど。そうなると編集長は原監督のような、選手の努力ぶりなどあまり考慮しないで容赦なく交替していくタイプがいいのでしょうね。
猪熊 起用してもらう側としては大変ですが(笑)。でも載せられる本数が決まってますからね。ならば、この雑誌で連載を取るならどんなジャンルの企画でどう攻めるべきか、自分を含めて漫画家たちは必死で考えてさまざまな工夫を重ねてきました。それが雑誌のありようを作っていたのだと思います。
――ところが、だんだんと紙の雑誌が厳しくなっていき、漫画家の主戦場もアプリなどデジタル媒体へと移りつつある。
猪熊 「週刊少年ジャンプ」以外の週刊漫画誌は世代交代がうまく行かず、かつての成功体験から脱却できずに、年々厳しくなっていったように思えます。
――うう、もう1本ビールをいただきます。
猪熊 そうなると、「目当ての漫画の続きが読みたくて買った雑誌で、ついでに読んだ作品にハマってしまう」という読者がいなくなってしまう。いまは、たとえばアプリ内ランキング上位の作品だけが読まれ、そうでない作品は埋もれていく……というサイクルになっている気がします。
――読者も、これまで自分が読んでいなかったジャンルの傑作に出会える機会が少なくなってしまいますね。
猪熊 漫画家としては「まず目立って読んでもらう」方策が必要になります。Twitterなどでバズったりすればいいのですが、そのためには頻繁に更新しなければいけない。
――漫画を描くための時間がバズるための時間に奪われてしまいますね。
猪熊 それでもいろいろと試みたおかげで、私の連載はアプリ内で人気を得ていたのですが、単行本が売れませんでした。ここ数年、私は「まず読んでもらう」ことに力を入れすぎたため、人気はあっても単行本で読むほどでは……という流れになっていたのかもしれません。
――聞きづらい話ですが、最近上梓された単行本の巻数があまり伸びなかったのには、そういう事情があったのですね。
猪熊 戦略ミスでした。そうして前の連載を早期に畳んだあと、日本文芸社の担当編集者から今回の注文が来たのです。
――さすが「漫画ゴラク」といいますか、すごい依頼をしてきますね。異世界モノは飽和状態と思わせて、そこにこんな企画をぶち込んでくるんですから。やられたと感じました。
猪熊 ええ、そのアプリ版である「ゴラクエッグ」での依頼だったのですが、「この企画は他媒体ではできないだろうから、独自性を出せる。単行本でも読まれる企画になり得るのではないか」と考えて、『異世界ソープランド輝夜』を始めることにしたのです。
――今度はその戦略がハマりつつある。
猪熊 自分がもっと若くて経験が乏しいころなら、アプリで「目立ってタップさせる」ことと、単行本で「まとめて読ませる」ことを両立させることはできなかったと思います。いまは電子書籍での数字に手応えを感じています。
――紙の単行本の形で家族に見られるのはちょっと恥ずかしい内容でもありますから、電子書籍で買ってスマホの中に置いておきたいですね。
猪熊 実は、これまでの漫画家生活の中で、エロをこのように押し出した作品を描くのは初めてだったのです。でも、そのおかげで電子書籍に新たな単行本読者を開拓できそうです。
――デビュー四半世紀にして挑戦の日々ですね。
猪熊 はい。いま乗り越えるべき課題は「キャラクター」です。『異世界ソープランド輝夜』は群像劇の体裁を取っているので、あるキャラクターの成長物語のようなものを描きづらい。
――ならば、今の群像劇のスタイルで、どこまでバラエティに富んだ面白さを出していくのか、を考えることになるのですね。
猪熊 この中世ヨーロッパ的な異世界では、このような「場」はない。古代ローマではあったようですが。そこにこんな“文化”が持ち込まれたらどうなるか。
――それは驚かれるでしょうなあ。……なるほど! 異世界人が初めてこういう「場」に入ると、エンタメとしてバリエーションが出せる! これで感動ドラマが作れるんですから。エッチな『テルマエ・ロマエ』ですね!!
猪熊 そのためには1話読みきりで、内容の濃い話を描きつづけないといけません。ですが、20年以上も週刊連載をやってきた自分なら可能な挑戦なのでは、と思っています。週刊連載では、1回でも「つなぎ」の話を描いたら読者が離れてしまう。そうした場で鍛えてきたのですからね。いまも1話ごとに、エロと異世界、それぞれについて説得力のある描写を心がけています。でも、作画にかけるカロリーが半端ないんですよね……。
――そりゃそうだ! エロ場面も異世界アクションも、どっちか片方描くだけでも大変なのに。無茶なことをしてますね……。
猪熊 私の場合、ネーム(絵コンテ)を考える人格と、作画をする人格が別なんですよ。ネームのときに「これ作画のときに苦労するだろうなあ」なんて考えたら面白くなるわけがないですから。
――そして作画のときにものすごいことに……。ご苦労がしのばれる話です。作画の労力を惜しまず、必ず1話のうちにエロもアクションも描ききり、キャラクターの魅力もギャグもたっぷり読ませている。これは傑作へと育つはずです。期待しています!
猪熊 ええ、頑張りますよ! 自分の経験と技術をフル投入して、いいものを残してみせます。次は異世界ならではのハーレムもののキャラクターが出てきてですね……。
――おお、それが輝夜で……。あっ、ビールもう1本いただきます!
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
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