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「お布施はお気持ちでけっこうです」の呪縛――集合知としてのお布施の崩壊

薄井秀夫 (株)寺院デザイン代表取締役

慈悲の実践としてのお布施

 お寺と付き合いのある人であればほとんどが、お布施をいくら包むかで悩んだ経験を持っているだろう。悩むのは、お布施の金額が決まっていないからである。悩んだあげく、勇気を出して僧侶に尋ねたところ、「お気持ちでけっこうです」と言われて困った、という話もよく聞く。

 なぜ僧侶は「お布施はお気持ちでけっこうです」と言うのだろうか。

 仏教界では、お布施というものは対価でないから、金額を決めるべきでないという考えがある。金額を決めると、お布施が宗教的なものでなくなってしまう、という主張もなされる。お布施の金額を決めないことは、絶対的な正義だと考えている僧侶は多い。中には、お布施の金額を決められないのは、お布施の意味をきちんと理解していないからだと考える僧侶もいる。人々の無知が、こうした事態を招いているのだと。

 一般の人々はお布施をいくら包めばいいか判らないからどうにかして欲しいと考え、仏教界は金額を提示するのは仏教として間違っていると考えている。どこまで行っても平行線のままだ。

 この問題を考えるにあたって、まず、「お布施」とは何かについて、整理しておく。

 お布施というのは、一般に、葬儀や法事の時に僧侶に渡すお金のことを言う。

 しかし本来、お布施というのは、お金のことを意味する言葉ではない。

 『広辞苑』の「布施」の項目には、「①人に物を施しめぐむこと。②僧に施し与える金銭または品物」とある。また『岩波仏教辞典』によると、「出家修行者、仏教教団、貧窮者などに財物その他を施し与えること(後略)」とある。

 つまりお布施とは、他の人々への「施し」であるということだ。

Noob Pixelshutterstockお布施は、本来「施し」を意味する Noob Pixel/Shutterstock.com

 そして仏教では、この「施し」は慈悲の実践とされる。ちなみに慈悲とは、他の人が抱えている苦に寄り添い、それを何とか無くしてあげようとする心のことを言う。この慈悲の心を実践する行為が布施なのである。

 と、ここまでお布施の意味について書いたが、何を言っているのかよくわからないという読者も多いだろう。「今、問題にしているのは葬儀でお坊さんに渡すお金のことで、そんな難しい話をしているんじゃないんだ」と。

 そうなのである。一般人の中で、こうした慈悲の実践などという意識でお布施を包んでいる人はいないし、そもそもそんな知識も無い。

 お布施は、葬儀をお願いするから包む。一般の人にとっては、それ以上でもそれ以下でもないのである。

お布施を決める社会システム

 また仏教側の主張として、お布施の金額を決めてはいけない、というものがある。これは築地本願寺のケースでも、アマゾンの「お坊さん便」のケースでも、問題視されたところである。

 金額を決めてはいけないのは、〈布施とは、施す者、施しを受ける者、施しの中身が清浄でなければならず、執着して、とらわれてはいけない〉からだという主張がされる。そして〈とらわれてはいけない〉から、〈金額を明示してはいけない〉のだと。

 しかしこの論理も、なかなか一般の人に理解できるものではない。理解しづらい論理のまま伝えても、人は納得しない。とりあえずわかった顔をして、不満をため込むだけである。

 そもそもこれが問題になるのは、多くの人々が、お布施の金額がわからなくて困っていることが背景にある。

「お布施はお気持ちでけっこうです」が、通用しなくなっている時代に SAND555UG/Shutterstock.com「お布施はお気持ちでけっこうです」が、通用しなくなっている時代に SAND555UG/Shutterstock.com

 しかし昭和30〜40年代くらいまでは、お布施の金額が明示されないでも、特に問題が無かったのも現実である。僧侶が「お気持ちでけっこうです」と言っても、葬儀を依頼する側は的確な金額のお布施を包んでいた。そうした時代は確かにあったのである。

 ただこうした時代も、お布施は「気持ち」で決めていたわけではない。

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