高原耕平(たかはら・こうへい) 人と防災未来センター主任研究員
1983年、神戸生まれ。大谷大学文学部哲学科卒。大阪大学文学研究科博士後期課程(臨床哲学)を経て現職。研究テーマは、災厄の記憶論と減災社会の技術論。最近の論文として、「オルタナティブ遺構論」(『復興』、近刊)、「0才児が語る阪神大震災:直後世代の震災学習と中間記憶」(『地域安全学会梗概集』、2020)など。
※プロフィールは、論座に執筆した当時のものです
「不安ぜんぶ棚卸しワークショップ」のこころみ
9月1日は「防災の日」ということで、この日に災害を想定した訓練を行う団体は多い。本稿では学校での避難訓練と防災体制改善について、具体的な方法を紹介しつつ考えてみたい。
学校の避難訓練をどうすればよいか、相談をいただくことがある。訓練シナリオを見せてもらうと、「授業中に非常ベルが鳴る、教頭先生の避難指示放送が入る、〈押さない・走らない・しゃべらない〉おはしルールを守って児童生徒が校庭に出る、人数を数える、校長先生がストップウォッチで避難完了までの秒数を測って訓示する」といった流れが書き込まれている。避難訓練は大切だが、筆者が小学生だった30年近く前からあまり変わっていない。
避難訓練を担当する先生もそのことは痛感しておられて、「休み時間に非常ベルを鳴らす」「児童には抜き打ちで訓練を開始する」などのパターンを試してみたいと言う。だが、避難訓練のマンネリ化から抜け出すために、目先の設定だけ変えてみても、より大きな意味では結局マンネリ化に陥ったままだ。
こうした避難訓練のマンネリ化は多くの学校で現場の先生方が感じておられることではないかとおもう。最大の問題は「何のための訓練なのか」という視点が欠けたまま避難訓練の目先の変更や学校防災マニュアルの改訂を焦ってしまい、訓練そのものが目的化してしまうことにある。さらにその背景には先生方の多忙がある。
現場の先生方や保護者、また児童生徒さんたち自身が、こんな避難訓練でよいのだろうかと漠然とした不安を抱えたままなのではないか。他方で、避難訓練を実施する先生たちは児童生徒の命を守るという責任をいちばん痛感している。どうすればよいだろうか。
必要なことは学校全体の防災体制を長期戦で鍛えてゆくことだ。そのためには教職員の意識を共有し、何年もかけてじっくり前進してゆく仕組みを組織が身につけることが求められる。避難訓練はあくまでその過程における一つの手段である。