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戦後日米関係の原点としての『マッカーサーの二千日』(袖井林二郎)

日本人はなぜマッカーサーと米国の占領をあれほどスムーズに受け入れたのか

三浦俊章 ジャーナリスト

 75年前の8月30日、神奈川県の厚木基地に到着した輸送機から、コーンパイプをくわえた軍人が降りてきた。連合国軍最高司令官としてその後5年半にわたって日本に君臨するダグラス・マッカーサー元帥(1880~1964年)である。一億玉砕の覚悟で本土決戦に備えていた日本国民は、一転して元帥を歓迎し、マッカーサーのもとに進められた本占領は、歴史に「成功物語」として刻まれるようになった。なぜ日本人はマッカーサーと米国の占領をあれほどスムーズに受け入れたのか。戦後75年の今年、マッカーサー研究の先駆的業績である『マッカーサーの二千日』(袖井林二郎)を読んでみよう。

 昭和天皇が玉音放送でポツダム宣言受諾を国民に告げたのが1945年8月15日である。8月19日には、参謀次長河辺虎四郎陸軍中将を団長とする日本側代表団が、フィリピンのマニラに到着し、アメリカ側との具体的な協議が始まった。マッカーサーの進駐は8月30日、場所は厚木基地と決まった。

「青い眼の大君」としてふるまったマッカーサー

1945年8月30日に厚木基地に降り立つマッカーサー。同盟通信の代表撮影

 厚木は海軍特攻隊の訓練基地であり、敗戦を受け入れぬ特攻隊員が反乱を叫んでいた場所である。日本側は反対したが、アメリカ側が押し切った。30日の到着の際、マッカーサーは日本政府の正式の出迎えを拒否している。許可されたのは新聞記者たちである。タラップの上に姿を現したマッカーサーは、目を上げて歌舞伎役者が大見えを切るように、ゆっくりと日本の地平線を見回した。

 マッカーサーは丸腰だった。先遣隊が2日前に到着していたとはいえ、この時点で、関東平野だけでも日本軍がまだ30万人もいたのである。

 「天皇の呼びかけによって降伏した日本国民が、新しい支配者に反抗の刃を向けるはずはないという確信が彼にはあった」と袖井氏は書く(中公文庫版、86ページ)。

 これはその後、2000日にわたって続くマッカーサーの日本統治術の核心だった。

 マッカーサーは昭和天皇を戦争犯罪人のリストから外し、天皇の権威を最大限に利用して、日本占領を進めた。4カ国に分割されて直接軍政のもとに置かれたドイツと異なり、日本は間接統治だった。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の発する指令・勧告にもとづいて日本政府が政治を行うのが建前だった。

 しかし、アメリカ軍による事実上の単独占領であり、しかも極めて異例なカリスマ性の強い人物が最高司令官となったため、マッカーサーは「青い眼の大君(タイクーン)」としてふるまったのである。日本占領は、マッカーサーという強烈な個性抜きには論じられないだろう。

 そもそも、最初に繰り出したパンチが強烈だった。

敗北を思い知らされた1枚の写真

 マッカーサーが日本に進駐してから約1カ月後の1945年9月29日。

 この日の朝刊を読んだ日本国民は腰を抜かした。各紙の1面トップには、2日前にアメリカ大使館にマッカーサーを訪ねた昭和天皇の写真が掲載されていた。

米陸軍が撮影、報道各社に配った昭和天皇とマッカーサーの写真
 モーニング姿で直立する短身の天皇の横には、長身のマッカーサーが、開襟シャツの軍服姿で並んでいる。しかも、くつろいだ様子で腰に手を当てている。

 「ほとんどの国民はこの一枚の写真によって、あらためて日本は敗けたのだと知らされ、日本の支配者が誰であるかを思い知らされたのだといえよう」(同書、109ページ)

 マッカーサーほど、自分がどう見られているのかを強烈に意識した軍人はいない。日本に進駐したときにすでに65歳であった。その特異なキャリアを確認しておこう。

 1880年にアメリカ南部のアーカンソー州に、南北戦争に従軍した父アーサー・マッカーサーの次男として生まれる。父親は南北戦争で陸軍中佐に上ったが、その後は軍歴にめぐまれず、ぱっとしない生涯を送った。亡くなったとき、遺体に軍服を着せないこと、葬儀は陸軍と関係なく行うこと、を遺書に記していた。父親の無念をはらすことが、同じ軍人の道に進んだ息子の原動力となっても不思議ではない。

 ダグラスの経歴は卓越している。

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