【25】[原爆を許すまじ」
2020年09月05日
今回は、敗戦から75年目の夏ということで、「原爆と唄」をテーマに取り上げようと思い、広島と長崎ゆかりの友人に「残暑見舞い」を兼ねて予備取材を試みた。
75年前の8月、広島と長崎の上空で原子爆弾が炸裂して以来、この地を襲った厄災をめぐって数多くの唄が創られ、うたい継がれてきたが、その中の代表的シンボルソングは何か? そう尋ねたところ、やはり二人の回答は、いずれも「原爆を許すまじ」(1954年、作詞・浅田石二、作曲・木下航二)であった。
♪ふるさとの街焼かれ/身よりの骨うめし焼土に/今は白い花咲く/ああ許すまじ原爆を/三度許すまじ原爆を/われらの街に
ところで、おそらく読者の大半は、この「原爆を許すまじ」を、生粋のヒロシマ生まれのプロテストソングだと思われているのではなかろうか。
実は、かくいう私自身も、本稿にとりかかるまではそう思い込んでいた。なぜか? それは、私の中に(いや、あの人類史的厄災を同時代の記憶として共有する私の年代までの人の中には)、〝怒りのヒロシマ、祈りのナガサキ〟のイメージがあるからである。
それを歌で代表させると、「怒り」では冒頭に掲げた「原爆を許すまじ」、「祈り」では被爆者救護に生涯を捧げた医師でありキリスト者でもあった永井隆をモデルにした「長崎の鐘」(1949年、作詞・サトウハチロー、作曲・古関裕二、唄・藤山一郎)が即座に脳裏に浮かぶからである。
歌:「原爆を許すまじ」
作詞:浅田石二、作曲:木下航二
時:1954年
場所:広島市/長崎市/東京大田区下丸子
これは私だけの〝思い込み〟ではない。当の〝怒りのヒロシマ〟においてもそうであるとの証言を、私とほぼ同年代の広島生まれで被爆二世のAから得た。
ちなみに、Aは、「原爆を許すまじ」を、小学校の音楽の授業中に教師のピアノの伴奏で合唱したこともあり、高校時代に自ら調べて知るまでは、この唄はてっきり自分と同じく「広島生まれ」だと思っていたという。そして、「広島の子供なら、ある世代までは、小学校で一度は必ず歌っている」とした上で、こんな言い得て妙なたとえをしてみせた。
「広島では『原爆を許すまじ』は、カープの応援歌『それ行けカープ』と同じぐらい、よく知られている」
さらに、私を驚かせたのは、11年前に亡くなった被爆者であるAの母親は、しばしばカラオケで「原爆を許すまじ」を歌っていたというのである。30年ほど前のレーザーディスクのカラオケボックスの時代だったというが、そもそも広島ではそんな昔から反核プロテストソングがカラオケにあったこと自体が驚きだ。そして、それを被爆者が愛唱するということも、東京では考えられない。さすがは〝怒りのヒロシマ〟だと感嘆しつつ、なるほど「原爆を許すまじ」は広島カープの応援歌並みに市民に浸透しているというAのたとえも、大いにうなずけた。
では、いっぽうの長崎はどうなのか?
私より3学年下のIは、爆心地から5キロほどで両親が被爆、叔母をふくめ親族を失った被爆二世である。Iによると、前述の広島のAのように、「原爆を許すまじ」を小学校時代に音楽の授業で教師から合唱指導をうけた記憶はないが、8月9日の平和公園での式典などに参加するなかで、いつの間にか口ずさめるようになった。また、折にふれラジオやテレビでも流されるので、同世代の友人たちをふくめて、長崎市民にはよく知られているが、「長崎をモチーフにした長崎生まれの唄」だという認識は、自分をふくめて市民の間にはないだろうという。そして、その背景には、長崎が
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