【26】「原爆を許すまじ」
2020年09月06日
前回記したように、1960年代、最大の左翼運動圏である首都圏においては、「原爆を許すまじ」は、ほぼ一部共産党系運動圏に限定された愛唱歌でしかなかった。いっぽう、当時の私をふくむ反共産党系の運動圏の視野からは見えなかったが、被爆地の広島と長崎では運動圏を超えて市民にひろく浸透していた。この〝運動圏内格差〝と〝地域間格差〟をどう理解したらいいのだろうか?
ここからは、その検証へと進もう。紹介が後先になったが、今回予備取材に協力してくれた友人の広島のAも長崎のIも共に東京の大学に進学、そこで〝アンチ共産党〟の全共闘運動に関わっている。しかし、二人とも「原爆を許すまじ」に限っては、私のように、あるいは広島・長崎出身以外の多くの全共闘活動家のように、〝共産党の唄〟だからといってそれを忌避や排斥はしない。それはなぜだろうか?
追究を進めるうちに浮かびあがってきたのは、「原爆を許すまじ」が絶妙なタイミングで被爆者の運動と反核運動をつなぐ歴史的役割を果たしたから、である。
1954年3月、太平洋ビキニ環礁での米軍水爆実験により「第五福竜丸」が被爆。それに触発された杉並区の主婦たちが「原水爆禁止の署名活動」に着手、わずか2カ月で当時の杉並区の人口の7割にあたる27万筆を集めると、運動は全国へと波及、翌年には3250万筆を超え、このダイナミズムの中から「原水爆禁止世界大会」が広島で実現する。これにより、それまで中央政治からは長らく等閑視されてきた広島と長崎の被爆者たちの救済にようやく光があてられただけでなく、それが国際的な反核運動ともつながるという、量的・質的な歴史的展開を遂げるのである
長崎で被爆した被団協代表委員の故・谷口稜曄はその経緯をこう述べている。
このとき私はビキニ被曝のことも、署名のことも知らなかった。長崎ではそれほど運動は盛り上がってなかったと思うのです。(略)原爆被害は長崎、広島以外にはほとんど知られず、被爆者は何の補償も受けられないまま後遺症に苦しむ毎日を送っていました。第五福竜丸の乗組員には米国から見舞金が支払われ、治療も無料で受けていた。放置されてきた被爆者はその落差から、運動に距離を置いたのではないでしょうか。
長崎、広島を巻き込んだ運動になるのは、55年8月に開かれた原水爆禁止世界大会から。口をつぐんでいた被爆者たちが、徐々に被爆体験を語り始めることになるのです。
(西日本新聞連載聞き書き「原爆を背負って」[2013年、78回]より)
この歴史的展開の同伴者であり時に先導の鼓吹役を果たしたのが「原爆を許すまじ」であった。それは、時計の針を往時に戻してみると明白である。
1954年3月、ビキニ環礁の水爆実験による第五福竜丸被爆に衝撃をうけ、共産党の影響下にある東京は南部工業地帯のうたごえ運動から、「原爆を許すまじ」が誕生する。
同年8月、「原爆を許すまじ」が広島で開催された「国鉄のうたごえ祭典」で本格デビュー、好評を博す。杉並区の主婦たちによる「原水爆禁止の署名活動」がスタート。
この運動を盛り上げるチアアップソングとなる同年11月、東京神田共立講堂で、同歌を主役にフィーチャーした「原爆許すまじ-日本うたごえ祭典」が開催される。
翌1955年8月8日、記念すべき第1回「原水爆禁止世界大会」(広島)で「原爆を許すまじ」が合唱演奏され、文字どおり原水爆反対運動のシンボルソングとなる。
歌:「原爆を許すまじ」
作詞:浅田石二、作曲:木下航二
時:1954年
場所:広島市/長崎市/東京大田区下丸子
ビキニ環礁での第五福竜丸被爆から原水禁世界大会までは、まさに「原爆を許すまじ」という〝鳴り物〟による一気呵成の1年半であり、それまで孤立無援状態に苦悩していた広島と長崎の被爆者たちにとっては、それは「救世の唄」と聞こえたはずである。そして、「これぞ自分たちの唄だ」「東京生まれであろうと、ある政党の息がかかった運動から持ち込まれた唄であろうと関係はない」と思ってうたい広めていったとしても不思議ではない。
そして、それはいつしか運動圏をこえて、広島では「カープの応援歌」並みに、そして長崎では平和公園で毎日原爆が投下された11時2分になるとチャイムでメロディが流されるほどに、市民の間に深く静かに広がっていったのではないだろうか。
さらに、運動圏外の一般の市民にも受け入れられたのは、この唄が運動圏生まれにもかかわらず〝運動臭〟がないことが幸いした
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