2020年09月09日
今年81歳になるイタリア映画の名匠、マルコ・ベロッキオ監督が初挑戦したマフィア映画、『シチリアーノ 裏切りの美学』はじつに異形な作品だ。従来のこのジャンルの枠を突き破った、既視感ゼロのマフィア映画というべきか、ともかく見る者は、152分間スクリーンに釘づけになる(本作が実話ベースの、入念に取材された劇映画であることも驚きだ)。
――1980年代初頭のシチリアでは、麻薬取引をめぐるマフィア同士の内部抗争(パレルモ派vsコルレオーネ派など)が激化していたが、パレルモ派の大物トンマーゾ・ブシェッタ(ピエルフランチェスコ・ファヴィーノ)は、血を血で洗う不毛な抗争を調停しようとするも、失敗。三番目の美しい妻(マリア・フェルナンダ・カンディド)とともにブシェッタは、海外ビジネスの拠点ブラジルに逃れるが、冷酷無比なサルヴァトーレ・リイナ(ニコラ・カリ)率いるコルレオーネ派によって、シチリアに残されたブシェッタの家族や仲間たちは次々と殺害されていく。
こうした“仁義なき”虐殺シーンの一連を、テロップ(字幕)を多用するフラッシュバック/回想形式を駆使し、ベロッキオは畳みかけるような素早さで描いていく。したがって、瞬間的には誰が誰を殺したのか、あるいはそもそも何が起こっているのかさえ判然としないシーンもある。
しかもカメラはしばしば、もっぱら襲撃される側の<主観的>視点で、切り返しなしに殺害シーンをとらえる。よって襲撃側は映らないので、それらの場面はカオスの坩堝(るつぼ)と化す(たとえば車の中に置かれたカメラが、いきなり銃弾で穴をうがたれ車内の者らの血の飛び散るフロントグラスを写す、など)。あるいは<客観的>なカメラのとらえる、性交中の男女が襲われる場面。カメラはそこでも襲撃者を写さず、女にかぶさった男にだけ銃弾が撃ち込まれ、動転した全裸の女がベッドから転がり落ち命拾いする様を、ほんの一瞬で示す。
さらに後半、ブシェッタに“裏切り”を決意させる或る重要人物(後述)の運転する車が、高速道路ごと遠隔操作の爆弾で爆破される凄惨なシーン。そこでも、爆風で振動する画面の奥で、道路全体が波打つように崩れ陥没していく光景を、車内に据えられた<主観的>カメラが短く写し、観客を戦慄させる。
とはいえ、これらの頻発する過激な暴力シーンは、描写のスピード感ゆえ、過度の残酷さを感じさせない。またそれゆえ、ブシェッタを定点とする物語はいささかもブレずに、求心力を絶やさない。描写における簡潔さを心得た、ベロッキオの卓抜な演出力に感服する(サルヴァトーレ・リイナの指示のもと凶暴なテロ組織と化し、パレルモ派という“種”を絶滅させようとしたコルレオーネ派のジェノサイド(集団殺戮)の犠牲者は、なんと百数十人におよんだが、その数をテロップで次々と記す手法にも一驚)。
さて、『シチリアーノ』の物語を大きく動かすのは、コルレオーネ派に対するブシェッタの反撃や報復ではない。それは意外にも、1984年にブラジルで逮捕されイタリアに引き渡されたブシェッタが、マフィア組織(コーザ・ノストラ)の“血の掟”に背き、国家に情報提供をすること、すなわち、イタリア当局と司法取引をすることによってであるが、この展開にこそ、『シチリアーノ』の既視感のなさ、つまり従来のマフィア映画の枠を大胆に壊す斬新さがある(マフィアの“血の掟”とは、組織についての情報を外部に漏らすことを固く禁じる、守秘義務のようなもの)。
ブシェッタはつまり、マフィアの<法/掟>より、国家の<法>に従うことを選択するわけだ。むろんそれは、マフィアにとっては“血の掟”を破る裏切り行為(密告)だが、
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