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村上春樹『海辺のカフカ』が告げた新しい旅物語の可能性

菊地史彦 ケイズワーク代表取締役、東京経済大学大学院(コミュニケーション研究科)講師

少年カフカの貴種物語

 1970年代と80年代を中心に、若者の「旅」をめぐるイメージの移り変わりを書いてきた。採り上げたトピックを振り返ってみると、やはり70年代の半ばに「旅」のモードはゆるやかに転換したように感じる。

 1960年代後半から70年代初頭にかけて、若者たちは既存の権威や権力、あるいは自身のいる場所から離れるために「旅」に出た。それが70年代後半には次第に新しい経験や知見、または自身にふさわしい場所を探す「旅」に変わっていったように見える。あえてシンメトリカルに並べれば、「離れる旅」と「探す旅」ということになる。

 「離れる」とは共同体からの離脱や追放であり、「探す」とは共同体における自身の意味や役割を再定義する行為である。むろん既成の「自分」も離脱の対象になる。当然ながら、「自分」を離れる不安や苦痛を引き受けて、初めて探索の途が開けるという逆説的な弁証法が働くからだ。どのような物語もそうであるように、困難の極点で成就への展望が見える。

 とすれば、この統合的な一つの話型がばらばらになって、「離れる旅」と「探す旅」の二つの物語へ分岐していったのが、1960年代から90年代に至る若者の「旅」だったのではないか。いうまでもなく、「統合的な話型」とは貴種流離譚と呼ばれる古来の話型のことである。

 そうした意味では、村上春樹の『海辺のカフカ』(2002)は、久々に登場した、本格的で本質的な若者の旅をめぐる小説だった。

 「本格的」というのは、この作品が「離脱」と「探索」の両方を備えた貴種流離譚であるからで、「本質的」なのは、「自分探し」の水底を浚(さら)ってそこに潜むトラウマのドラマを取り出していることだ。

自身がDJを務めるラジオ番組「村上RADIO」の収録に臨んだ村上春樹さん=2018年8月 TOKYO FM提供自身がDJを務めるラジオ番組「村上RADIO」の収録に臨んだ村上春樹さん=2018年8月 TOKYO FM提供

オイディプスを真似る少年

 物語の主軸は、15歳の少年「田村カフカ」が向かった四国を舞台にする「旅」である。父と二人暮らしの少年は、このままでは自分が「損なわれていく」と感じて家を出た。香川県高松市にやってきた彼は、そこで由緒ある私設図書館に遭遇し、司書の「大島さん」の計らいで助手として住み込む。また館長の「佐伯さん」に強く惹かれ、彼女が4歳の自分を捨てた母親ではないかと疑う。

 偶然の出会いのようだが、「お前は父を殺し、母と姉と交わる」という父親の予言通りにストーリーは進行する。高名な彫刻家の父が自宅で刺殺され、同時刻に少年は高松市内の神社で意識を失い、覚醒するとTシャツには大量の血が付着していた。少年にも嫌疑がかかったため、警察を逃れるべく、大島さんの導きで高知県山中の小屋に隠れる……。

 主筋と並行して、「ナカタさん」という奇妙な老人が四国へ向かう。子どもの頃に正体不明の事故で「自分」を失った彼の稼業は迷い猫探しだが、「ジョニー・ウォーカー」を名乗る「猫殺し」に猫を助けたいなら自分を殺せと脅され、彼をナイフで殺害する。

 その後、ナカタさんはなぜか西へ行かなければならないと感じ、トラックドライバーの「星野青年」の力を借りて高松市へやってくる。二人は「入り口の石」を見つけてもう一つの世界を開ける。ナカタさんも件の図書館に赴いて佐伯さんに会い、相手が自分と同じ半分しか影のない存在であることを知る。佐伯さんの要請に従って彼女の記憶を記したノートを燃やしたナカタさんは、星野青年に入り口を塞ぐように求めて死ぬ。佐伯さんもほぼ同時にこの世を去る……。

 田村少年を突き動かすのは、なぜ母親に捨てられたのか、

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