異質な価値観と出会ったときの心構え
2020年09月24日
岐阜県揖斐郡にある徳山ダムは、日本最大の貯水量を誇る。その水量は6億6000万立方メートル(東京ドーム約532杯分)というから想像もつかない。このダム湖の下にはかつて、徳山村という村があり、1500人ほどの人々が生活を営んでいた。村は1987年3月に廃村となり、以後、人々は徐々に集団移転地に移っていった。最後の一人となったのが廣瀬ゆきえさんだ。
大西さんは岐阜県揖斐郡の出身で、上京しカメラマンとして活躍していたが、1991年から徳山村に通い始めた。東京からオートバイで500キロの道のりを行き来したというから、20代で若かったとはいえそのエネルギーは並大抵ではない。
ゆきえさんが住む村の最奥部の門入(かどにゅう)地区に大西さんが初めて行ったのは1993年のこと。「腹減っとらんか」「飯食ってけ!」と、ゆきえさんは行くたびに見たこともない食材の料理を出してくれた。司さんはいつも陽気に酔っぱらいながら、お酒を勧めてくれる。当時はまだ何軒か村人が暮らしており、隣人のハツエさんの言葉がここの暮らしの豊かさを伝えてくれる。
「電気もガスも水道もここには何もないんじゃ。日があるうちに仕事をし、暮れれば寝るという生活やな。母屋はダムに契約してしまったで壊してまった。しょうがないんじゃ。でも、ええ暮らしやろ! こんな幸せを独り占めしてええんかなって思っとるよ」
春はコゴミ、わらび、ぜんまいなどの山菜採り、すぐに田んぼや畑が忙しくなる。梅雨の前後に竹の子。夏になるとマムシが出るが、貴重なたんぱく源として焼いて食べたりマムシ酒にしたり。川魚もとる。秋は山の実。なかでもトチの実はこの地域で重宝されていた。様々な工程を経てアクを抜き、お正月まで保存。お正月にはトチ餅にする。野生の自然薯(じねんじょ)を掘ったり、イノシシを狩ったり、毎日やることが目白押しだ。
冬は雪に閉ざされてしまうのだが、意外にも人々には待ちに待った季節だった。大西さんは『徳山村に生きる――季節の記憶』(農山漁村文化協会)という書籍のなかで、村人の話をこう記している。
「冬はとにかく楽しくてな」
「ほかの集落に頼まれては鼓を持って踊りに行ってな。そりゃ、夜中まで笑いが絶えんかった。それにいつもいつも人が集まる家やったから、毎晩にぎやかでな。冬が来るのが待ち遠しいくらいや」
少しずつ村人たちは移転し、最後には司さんとゆきえさんの夫婦だけになってしまった。そして2004年夏、司さんが亡くなった。本当に一人になってしまったゆきえさんは翌年5月、門入から出ていくことを決めた。移転先は、本巣市の集団移転地に建てた家だ。その後も大西さんはゆきえさんのもとに足を運んだ。それは、冒頭で記した「なぜ最後の一人になるまで残ったのか」という謎を解くためだ。
そして、ゆきえさんの幼少期からの生い立ちが語られていく。それを受けて、大西さんはゆきえさんがたどったであろう場所を訪ね歩く。小学校を出て勤めたホハレ峠を越えた先の養蚕工場の地や、集団開拓の一員として嫁いだ先の北海道ニセコ、係累を追って札幌。
ニセコでは、ゆきえさんがかつて住んでいたと語った住所を尋ねる。〇〇村まではたどり着けても、番地をどう探し当てるのか。おどろくことに、こんなとき大西さんは「ネット情報を極力避ける」。なぜなら、「周囲の人に聞きながら探してゆくことで、その地域の雰囲気が大筋見えてくるからだ」。手当たり次第にインターホンを押したり、その土地の人に話しかけてみる。これぞ歩く民俗学者だ。そうしておどろくことに、大西さんは引き当てるのだ。訪ねた先の女性が言う。
「お父さん! 徳山村からお客さんだよ!」
「なに? 徳山村だと! おいおい本当か」
「よく来た! 本当によく来てくれた。ここで正解だ」
こうなってくると、探偵小説を読んでいるようで本の中に引き込まれていく。目当ての人に会った場面では、思わず鳥肌が立った。
大西さんは少しずつ、ゆきえさんが最後まで住み続けた理由を推測していく。それは……迷ったが、探偵小説のネタ明かしをするようなので、ここでははっきり書かないことにする。ただこの原稿のためにやむなく少し触れるのだが、先祖から受け渡されてきた土地を守る、というようなことだ(こう書くと浅すぎるが……)。
私はその理由を知ったとき、「え?」と思ってしまった。旧態依然としているようにも感じたし、因習というか、がんじがらめというか……。断捨離がすっかり定着し、テレワークが推奨されて、物を持たない、場所に縛られない価値観にシフトしつつある私は、「理解できないなぁ」と思ってしまった。「なぜそこまでこだわるんだろう」と。一方でゆきえさんや大西さんの生きざまと人柄に浸ったあとでもあり、宙ぶらりんな気持ちだった。
そうして数日過ごしたのだが、ふと思い出した。それは、司さんとゆきえさんの夫婦が水資源開発公団(当時)から訴えられた場面だ。大西さんは、温厚な司さんが一度だけ声を震わせる場面を見た、としてその裁判のシーンを記している。「(裁判で小屋を建てた時期を問われ)何年の何月など細かい質問に答えられない度に、呆れた表情を見せ、薄ら笑いする原告側の態度に僕は怒りを覚えた」。
契約書通り門入の建物を壊さず、小屋を建てたことに対して、公団は夫婦を追及する。そして、司さんは裁判で声を震わせた。
「いつ建てたなんて、どうでもええ話やないか! ここはわしの土地なんや、ダムになっても(標高が高いため)門入は沈まない。だったらなぜ今壊さなあかんのや!(後略)」
司さん、ゆきえさん夫婦は敗訴した。私も読みながらこの役人たちに対し、怒りがわいてきた。一方で、この役人たちは、自分たちなりの論理を信じており、そこからはみ出す価値観で訴えてくる司さん、ゆきえさんを蔑んでいる。ちょっと待って、それと私の感じた「理解できないなぁ」は何が違うのか? もしかしたら根は一緒なのではないか。
自分とはほど遠い価値観に出会うと、「無理だ」「到底理解できない」と思ってしまいがちだ。だが、私はゆきえさんの環境で生きてきたわけではなく、簡単に「違う」とか、「古い」とか言ってしまうのはただの傲慢ではないか。理解を投げ出す態度は、臆面もなく相手を薄ら笑うことへの初めの一歩かもしれない。そう気づいてハッとし、茫然とし、恥ずかしくなった。
さて徳山村といえば、増山たづ子さんを思い出す方もいるかもしれない。1990年代、ピッカリコニカというコンパクトカメラで村の様子を撮って一躍有名になった村人だ。増山さんの写真集のなかに、司さんとゆきえさんの写真もあった。撮影日が88年と記録されている。そこにはこんなふうに書かれていた。
「夏の間、広瀬司・ゆきえさん夫婦は徳山村が忘れられずに戻っている。大自然の中で暮らしていると元気が良いなー」
ジャーナリストの江森陽弘さんが徳山村のことを書いた『ダムに沈んだ村』(近代文芸社)も読んでみたが、そこにはダムをめぐっての札束が飛び交うやりとりや、そこに群がる怪しげな面々のことなどが書かれていた。なによりも心が痛んだのは、移転先で人々が活力を失っていく様だ。なかには自ら命を絶つ人もいた。大西さんや増山たづ子さんの写真に写る快活なこの人たちが? 信じられない思いだった。
その様子は大西さんの本にもある。移転地で暮らすゆきえさんを、大西さんがスーパーに連れて行ったときだ。ゆきえさんは、一度取り上げたネギを売り場に戻した。大西さんは家にあるのかと尋ねると、
「そうじゃない。なあ、大西さん! なんで、わしが九八円の特価品のネギを買わなあかんのやって思ったんよ」
「わしは、たくさん人のためにネギも作ってきた農民や。北海道でも徳山でもひとのためにたくさんつくってきた。(中略)その農民のわしが、なんで特価品の安いネギを買わなあかんのかなって考えてな。惨めなもんや。ちょっとなさけなくなったんや。
わしら家族は豊かになるはずじゃなかったんか!って思ってな。徳山村を出ることで、暮らしが豊かになるんやって、ダムを造る国の偉い人らに何十年とこんこんと教えられ続けてきたんや。(後略)」
そしてこう言った。
「先代が守ってきた財産を、すっかりこの代で食いつぶしてまった。金に換えたらすべてが終わりやな」
大西さんの「仕方なかったんだよ! ゆきえさん」という言葉に思わず泣きそうになる。故郷をお金と引き換えに差し出さざるをえず、さまざまな思いを抱えて生きていく人々。そんな事情を知ろうともせず、お金を払ったんだから、と胡坐をかいて享受する私たち都市の人間。その構図はダムを原発に置き換えれば、今も何も変わっていない。
大西さんのこの一文は強烈だ。
「村をつぶしてまでも、そのエネルギーを得ようとする人の生き方に疑問を持っていたい」
ダムに沈んだ山奥の村に住んでいた、一人の女性の物語。国の政策に激しく翻弄されながらも、たくましくしたたかに、地に足をつけて暮らした人々の記録。最後のページには、ゆきえさんと、著者の娘さん(多分小学生くらい)の、87歳差の2ショットの写真が掲載されている。そして裏表紙に写るゆきえさんの手の写真。写真が撮られた場面を知り、私は今も強烈な余韻の中にいる。
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