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〝昭和の歌姫〟がうたい遺した鎮魂の反戦歌 その2

【28】美空ひばり「一本の鉛筆」

前田和男 翻訳家・ノンフィクション作家

 それにしても、なぜ〝昭和の歌姫〟は昭和が終わろうとするとき、自らに死がしのびよるなか広島まで出かけていき、楽屋にベッドを持ち込んで点滴を打ってまで、「一本の鉛筆」をうたったのか? そして、さながら遺言のごとく「ベスト10」の6番目にこの唄を挙げて彼岸へと旅立ったのか?

 ここからは、美空ひばりが死を前にして「一本の鉛筆」にそこまでこだわった心奥にひそむ想いについて迫ってみたい。

〝昭和の歌姫〟がうたい遺した鎮魂の反戦歌 その1

〝反戦〟の原点は父の出征と横浜大空襲

美空ひばりの父が営み、いとこが引き継いだ魚屋「魚増」=2010年12月13日 、横浜市磯子区

 その手がかりの核心となるのは、すでに多くの関係者と評論家も指摘しているように、ひばり自身の生身の戦争体験にあることは間違いあるまい。改めて複数の史資料をつきあわせて検証してみると、ひばりの〝反戦〟の根っこにある原体験とは、概ね以下のとおりである。

 1943(昭和18)年6月、鮮魚商を営む父親・増吉のもとに「赤紙」が届いた。流行歌のレコードを聴くのが趣味の父の影響で〝のど自慢〟に育った6歳の娘は、父親の壮行会で軍国歌謡「九段の母」をうたい、集まった者たちを感涙にむせばせた。これが評判を呼び、以来、近所で壮行会が開かれるたびに「小さな慰問歌手」として声がかかるようになり、これが終戦直後の「天才少女歌手」誕生の原点となった。

 もう一つひばりの〝反戦〟の核となったのは、父の出征から2年後の1945(昭和20)年5月29日の朝、横浜市域をおそった空襲である。くしくもひばり8歳の誕生日であったことがさらに〝戦争嫌い〟をひばりの心層深くに刻印することになった。

 米第21爆撃機集団所属のB29編隊517機がマリアナ基地から飛来。午前9時頃から午後10時30分頃にかけて投下された焼夷弾は3月10日の東京大空襲の1.5倍の約44万発(約2万6000トン)、罹災家屋約8万戸、死傷者・行方不明者は確認された数字で約1万4000名だが実数はその数倍ともいわれる。横浜の市街地は猛火により焦土と化し31万人超が焼け出された。

 ひばりも実家があった横浜市磯子区で空前の厄災に遭遇したが、父が出征したあと母親がつくった自家用防空壕に入って辛うじて難を逃れることができた。しかし、近所の家が焼夷弾を浴びて燃え上がり、B29が撃墜されて落下するのを目の当たりにした恐怖の体験を、「その光景は、今でもありありと思い出す」と書き記している。

唄:「一本の鉛筆」唄・美空ひばり
 作詞:松山善三、作曲:佐藤勝
時:1974(昭和49)年
場所:広島市/横浜市磯子

初代「三人娘」結成でも〝反戦〟を訴える

 美空ひばりの心層深くに刻まれた幼児期の〝反戦の想い〟は、長じても消えることはなかった。

 敗戦から10年の1955(昭和30)年、新生日本を象徴する新星のごとく現われた女性歌手によって初代「三人娘」が結成される。その一人は1949(昭和24)年に12歳でデビュー、「悲しき口笛」で大ヒットを飛ばしていきなりトップスターの座を手に入れた美空ひばり、残りの二人は、それぞれデビューが52年「テネシーワルツ」の江利チエミ、53年の「思いでのワルツ」の雪村いづみ。ともに18歳の同い年であった。

 結成発表をうけて、三人娘たちに「今何が一番欲しいか」の質問が投げられた。

 江利チエミの答えは「話している相手が本当は何を考えているかということを見抜ける目玉が欲しい」

 雪村いづみの答えは「天女の羽衣のようなものがあったら、それでこのきたない世の中からおさらばして一人でフワッと広い空を飛んでいきたいわ」

 これに対して、ひばりの答えは「この世界から

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