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『ペリリュー 楽園のゲルニカ』――戦争体験が失われる時代のリアリティー

大槻慎二 編集者、田畑書店社主

 この夏は何よりもコロナ、それと東京オリンピックの延期や安倍首相辞任などで記憶されると思うが、とりわけ「戦争」について語られる機会が多かったと感ずるのは個人的な見解に過ぎないだろうか。データをとったわけではないが、テレビや新聞、随所で行われるイベントの中に戦争をテーマにしたものが例年に比べて多かった気がする。

 前回の節目だった「戦後70年」では政権与党が「村山談話」を継承するかどうかに注目が集まった。結果、政治案件的な性格が強かったが、75年目の今年はいよいよ人口の2割を切ったと言われる「戦争経験者」の不在が実感として迫っており、そのことがわれわれの深層に働きかけているのかもしれない。

 そんな夏の終わり(といってもまだ十分暑かったが)、東京・台東区の銀座線田原町駅近くにある書店〈Readin' Writin' BOOKSTORE〉にお邪魔した。毎日新聞記者だった落合博さんが定年前に会社を辞め、3年前にオープンした個性的な書店である。

 目的はここで定期的に行われている「聡子の部屋」というトークイベントに参加するためだった。ジェンダー・フェミニズム研究を専門としている気鋭の社会学者、梁・永山聡子(ヤン・ナガヤマサトコ・チョンジャ)さんが「いま会いたい」人をゲストに迎えて話を聴くというこの連続イベントには以前から興味を唆(そそ)られていたが、日本近代軍事史の研究で知られる吉田裕さんがゲストの今回、ようやく参加することができた。

東京・台東区の銀座線田原町駅近くにある書店〈Readin' Writin' BOOKSTOREトークイベント「聡子の部屋」。吉田裕さん(左)と梁・永山聡子さん=2020年8月21日、東京・台東区の「Readin' Writin' BOOKSTORE」

 そしてこの機会に不覚にも未読だった中公新書のベストセラー『日本軍兵士――アジア・太平洋戦争の現実』を読み、深い感銘を受けた。これは凄い本だ。そのことは後述するが、まずは「聡子の部屋」である。

問われる「虚構の倫理」

 スタッフ、観客も含めて大半が20〜30代という会場の若さがまず驚きであったが、聡子さんの情熱的でフランクな質問に丁寧に応ずる吉田さんのお話は実に聞きごたえがあった。戦争と現代の日本を考える上で重要なヒントを沢山お土産にもらったのだが、強く印象に残ったことがふたつある。

 ひとつは戦死した息子の恩給を誰が受け取るか、という問題である。家父長制の強い影響下、戦死者の父母が恩給を独占してしまい、遺された妻や子どもに行き渡ることなく、訴訟にまで発展するケースも多々あったという。何やらコロナ禍での10万円給付金問題を彷彿とさせもするし、嫁姑の相剋に戦争とフェミニズムというテーマに発展しそうなタネも窺えるが、単純に考えてここにあるのは、兵士はいったい誰のために闘い、何のために死んでいったのかという疑問である。

 戦場に斃れた兵士の身になれば、死の瞬間まっさきに思い至るのは、自身の親のことよりも、遺していく妻と子の行く末だろう。その末期の祈りさえ叶えられないとすれば、無念にもほどがある。

 つまりここには家父長制の延長線上にある天皇制の問題、個人の幸福よりも国家の体面を優先させることでもたらされる悲劇が、「戦争の実態」として恩給という身も蓋もないところにあらわれている。

 そしてそれは、夫婦別姓を認めず、自助自責を家族単位に押し込めようとする自民党の改憲案と妙に符丁が合う。

 ふたつ目は体験者がいなくなったとき「戦争」はどう語られていくのだろうかという問題。「物語」の基盤に「体験」がなくなったとき、初めて「虚構の倫理」が問われる。つまり「リアリティー」は何をもって保証されるかという問題である。

 そこで吉田さんの口から発せられたのは、「サバゲー」、つまりサバイバルゲームに、このところ日本兵に扮して行うものが出てきていること、それと特攻隊の慰霊の地・知覧で行われている「活入れ」という中小企業の経営者や新入社員対象に行われている自己啓発目的の研修のことだった。

 これらは明らかに「戦争の美化」を超越した「戦争という物語の消費」である。

武田一義の『ペリリュー 楽園のゲルニカ』(白泉社)武田一義『ペリリュー 楽園のゲルニカ』 ©武田一義/白泉社
 その一方で挙げられたのはふたつのマンガ、武田一義の『ペリリュー 楽園のゲルニカ』(白泉社)と小梅けいと作画/スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ原作の『戦争は女の顔をしていない』(KADOKAWA)だった。

 ベクトルはまるで逆方向ではあるにせよ、これらも「戦争という物語の消費」には違いない。けれども両者を大きく隔てているのは「物語」の立脚点にある「ファクト」の重さ、リアリティーを保証する「虚構の倫理」の有無である。

兵士の立ち位置から見た戦場の現実

 そこで、ファクトの力に圧倒される吉田裕さんの『日本軍兵士――アジア・太平洋戦争の現実』の話に戻る。この本はあくまで「兵士の目線」で「兵士の立ち位置」から戦場をとらえ直してみることを本義としている。それが右からも左からも読まれ、つまりは本書をベストセラーにしている要因でもあるが、掘り起こされ提示された現実には本当に目を瞠(みは)る。

 ほとんど物も食べずに痩せ細ったボロボロの身体で、自分の体重に等しい重量の装備を身に付けて行軍する恐怖。口腔は虫歯だらけ、末期には牛革もなく浸水を許す鮫皮の軍靴を履き、靴の中は戦後何年経っても治らないほどの酷い水虫に冒されている。

 その実態を知ればサバゲーのコスプレも変わるだろうし、そもそもそんな日本兵に扮する気にもならないだろう。

厚生省派遣遺骨収集団によって旧日本軍司令部跡に安置された兵士の遺骨=1967年5月、ペリリュー島厚生省派遣遺骨収集団によって旧日本軍司令部跡に安置された兵士の遺骨=1967年5月、ペリリュー島

 また、暗号の解読とレーダーによって到達前に撃ち落とされなかった幸運な特攻機も、激突する瞬間に機自体に浮力が働き、爆弾を投下したときの何分の1かしか破壊力がないので、体当たりしても撃沈には到底いたらないというこの作戦の根本的な欠陥を、当の特攻隊員が熟知していたという事実。

 爆弾を投下して激突間際に反転するパイロットを阻むため、爆弾を落とせないように機体に固着させたという軍の恐るべき冷酷さ。突撃前に発狂する隊員が絶えなかったことも頷ける。

1945年、鹿児島県の知覧基地から沖縄に出撃する特攻隊のパイロットたち1945年、鹿児島県の知覧基地から沖縄に出撃する特攻隊のパイロットたち

 それを知ったらおそらく、自己啓発の意味が瓦解し、「活入れ」どころか気が抜けて仕方ないだろう。いや、フツフツと湧いてくる軍首脳部に対する怒りが、逆に「活」を入れることになるのかもしれないが……。

「戦後レジーム」を脱却、いまは「戦中」か

 以前この「論座」に載せてもらった「赤木雅子さんとともに『私(たち)は真実が知りたい』」では、「終わってしまった物語」に正当に引導を渡し、「新しい物語」を作ることの重要さを書いたつもりだが、実は、それはひとえにこれから「戦争」をどう語るかにかかっているのだと思いはじめている。

 その意味では『ペリリュー 楽園のゲルニカ』がいま、多くの若い読者に受け容れられていることの意義は大きい。

 温かいタッチで描かれた三等身のユーモラスなキャラクターが、戦争の現実の悲惨さを緩和し、読者を増やしていることは否めないにせよ、作者の取材は行き届いており、吉田さんが『日本軍兵士』に記した「処置」、すなわち傷病兵を現地に置き去りにする際、敵の捕虜にならないよう「殺して」いくという残酷な現実もちゃんと踏まえている。それが“三等身のユーモラスなキャラクター”の行為として描かれているだけになおさら恐いのは、おそらく作者の計算のうちだろう。

 このマンガはまだ連載中なのでこれからが楽しみなのだが、現在単行本化されている9巻までに限って言えば、もう戦争が終わっているのに、それを信じられずにジャングルに潜伏し、戦い続けている8巻以降がより痛ましい。

戦時中、パラオ・ペリリュー島で日本側が野戦病院などに使用したという洞窟=2015年戦時中、ペリリュー島で日本軍が野戦病院などに使用したという洞窟=2015年

 唐突なのだが、安倍首相の作為的な辞任劇のあと、なおも菅氏に引き継がれる「終わってしまった物語」にしがみつく「わが国民」に思いが至ってしまう。もしかしたら安倍政権の最大の罪は、「戦後レジーム」を脱却して「戦前」に戻すつもりの日本を、実は「戦中」に戻してしまったことではないか。もちろん戦火で失われるのは国民の命ではないにせよ(いや、コロナに限っては命か)、日本という国の経済、外交、文化、そして何よりも「国の格」というべきものが日に日に失われていく。

 『日本軍兵士』によれば、310万人の戦死者のうち9割が敗戦前の一年、1944年に集中しているという。しかも呆れるのはその数字も「年次ごとの戦死者」という基礎的な統計がないので、類推するしかないとのこと。

 公的な記録を消し続け、外からの客観的な目を否定し続けている政権が、なおその姿勢を改めないとすれば、いまはさしずめ1944年状態だろうか。