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バランスより熱、つかこうへいのドラマ作り

1982年『つか版・忠臣蔵』てんまつ記④

長谷川康夫 演出家・脚本家

 1982年12月31日にテレビ東京で放送された『つか版・忠臣蔵』をめぐるシリーズの4回目です。

  第1回 つかこうへいが掲げた「打倒・紅白」の旗印
  第2回 つかこうへいが何度も構想した「非・義士」の物語
  第3回 つかこうへい作・演出のドラマが動き出す

つかにとって不可欠だった高野嗣郎

つかこうへい作・演出『蒲田行進曲』での高野嗣郎(手前)。ぽっちゃり体形がトレードマークだった。後ろは柄本明と根岸季衣=1981年、©斎藤一男
 この連載のために、忘れていた古い台本を引っ張り出したことで、今それを発見し、何やらうれしくなって長々と書いてしまったが、高野嗣郎など知らない読者にとっては、何の興味もないに違いない。

 しかしここであえてその名を出すのは、高野嗣郎という人間が、つかこうへいが世に出て行く上で、平田満や風間杜夫などとは別の意味で、必要不可欠な存在だったからだ。何よりつかの執筆活動において、高野の果たした役割は大きい。

 『劇団つかこうへい事務所』時代、つかの初めての小説『熱海殺人事件』以降、すべての小説、エッセイなどの仕事に関して、僕が加わる前から、つかのそばには絶えず高野がいて、その執筆をアシストした。それがどのように行われたかは、『つかこうへい正伝 1968ー1982』で詳しく書いたはずだ。

 劇団解散後、僕が自分の芝居を始めて、つかの原稿仕事を手伝わなくなってからも、高野はほぼ10年以上、テレビ・舞台などの俳優の仕事と並行して、雑誌のライターなどもこなしながら、つかに請われ、そのいくつかの作品でたびたび助手を務めた。高野が主人公を演じる(?)小説『ハゲデブ殺人事件』などは、そんな彼に対する、つかこうへいなりの返礼だと僕は思っている。

高野は凄腕の書き手だった

つかこうへい=1986年撮影
 その後、高野は『劇団つかこうへい事務所』のメンバーの中でただ一人、この世界から足を洗い、今は実家のある名古屋に戻って別の仕事に就いている。
劇団時代、どこかコンビのような時間も長かったがゆえに、あいつが俳優などという不向きな職にさっさと見切りをつけ、自分なりに〝物書き〟として生きていく道を選んでいればなぁ……と、僕はこの齢になってもまだ思ってしまう。

 酒が過ぎるとか、生活がとことんだらしないとか、自分勝手にもほどがあるとか、大人として社会生活を営む上での、高野自身にあった問題はいくつも挙げられるし、仲間として何度もそんな部分を諌めてきた。今でも何年かに一度、会った折に冗談めかして責めたりもする。ただ高野はいたって醒めていて、後悔などないようだ。

 ただ、僕が現在の仕事をそれなりの年月、続ける中で、「ライター」なる人々と関わることも多かったが、単純に高野以上の〝筆力〟の持ち主に出会ったことはない。これは僕の正直な気持ちだ。

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