メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

news letter
RSS

無料

大澤真幸・國分功一郎『コロナ時代の哲学』が語る「言葉」と志

ポストコロナをディストピアにしないために

今野哲男 編集者・ライター

「ノリ・メ・タンゲレ(私に触れるな)」だけでは圧倒的に足りない

 では、この本の言説は、「まえがき」以降、どのように展開するのだろうか。構成は、「まえがき」の後に、まず「ポストコロナの神的暴力」という大澤の<論文>があり、次に大澤と國分功一郎の<対談>「哲学者からの警鐘」がくる形をとっている。

 <論文>は、コロナ禍が国境を越えたグローバルな事象であることを象徴するかのように、まず新訳聖書の逸話の紹介から始まる。「ヨハネによる福音書」だけにある逸話である。

 イエスが十字架上で絶命した後、マグダラのマリアが空っぽになったイエスの墓前で泣いていると、白衣の使いが現れる。その使いとの短いやり取りがあってからマリアが振り返ると、もう一人の男がいる。彼女は「何を泣いているのか。誰を求めているのか」というその男の問いに答えた後で、彼が復活したイエスだと気づいたのだろう、おそらくイエスにすがりつこうとした。それに対してイエスは「ノリ・メ・タンゲレ(私に触れるな)」と言ったというのである。この命令は、復活したイエスの最初の言葉として重視されてきたらしい。

 だが、これだけではコロナ禍で我々に課される基本的な制約、つまりソーシャル・ディスタンスを守れという情報的な「コロナ対策」にほぼ等しい。

Linda Bestwickshutterstock拡大Linda Bestwick/Shutterstock.com

 では、大澤は、これにどんな付加価値を見つけ出すのだろうか。それは、「触れられる対象という限りでの(局在する)イエスの身体を否定することが、キリストの身体をより強力な存在へと、つまり(偏在して奇跡をなす)普遍的なものへと転換するのだ」と説明される。つまり、「いまここでは触れるな」という「ノリ・メ・タンゲレ」の戒律は、実のところ、それとは逆の「(どこであっても)身体に触れる(ことで施される)」という奇跡が根幹にあってのことなのだと。

 これで、コロナ禍で招来される「新しい生活様式」には、「情報的なコロナ対策=ノリ・メ・タンゲレ」だけでは足りないこと、むしろ、触れることを排除できないし、排除すべきでもないことが示唆される。

 もちろん大澤は、「ノリ・メ・タンゲレ」が及ぼす「新しい生活様式」についても抜け目なく言及する。「多くの活動は、オンラインに移し変えられるし、その方が高い効果や効用が得られる場合もあるだろう。長時間の通勤は苦痛だし、時間の無駄だ……」などと。その上で、「コミュニケーションが全体として、身体の非接触を目指しているとき、何か根本的なことが失われるのではないか」と釘を刺し、対談部分で國分が言及している話を用いて、キリストの逸話とはまた別の角度から、「情報的なコロナ対策」では不十分だと説いている。それは、「鏡像の自己認知」に関する実験に関する話である。

全ジャンルパックなら本の記事が読み放題。


筆者

今野哲男

今野哲男(こんの・てつお) 編集者・ライター

1953年生まれ。月刊『翻訳の世界』編集長を経てフリーに。「光文社古典新訳文庫」に創刊以来かかわり、また演劇体験をいかして『セレクション 竹内敏晴の「からだと思想」』全4巻(藤原書店)などを編集。著書に『竹内敏晴』(言視舎評伝選)、共著に森達也との『希望の国の少数異見』(言視舎)、インタビュアーとしての仕事に、鷲田清一『教養としての「死」を考える』、吉本隆明『生涯現役』(以上、洋泉社)、木村敏『臨床哲学の知』(言視舎)、竹内敏晴『レッスンする人』(藤原書店)、『生きることのレッスン』(トランスビュー)など。現・上智大学非常勤講師。

※プロフィールは、論座に執筆した当時のものです