「社会制度としての仏教を考える」という連載を始めさせていただく。
現代人にとって、お寺という存在は、どうもつきあいにくい存在となっている。
それは、仏教や先祖供養が嫌いというわけではなく、お寺そのものとどうつきあっていいかわからないという面が大きい。わからないだけではなく、納得できないことも多く、それに対する説明もあまりされない。納得できなくても従わなければならない雰囲気すらある。
お寺とのつきあいは、世間の常識的な考え方が通用しないのである。
もちろん宗教的な事柄は、世間的な考え方と違って当然である。それは皆、納得している。問題は宗教的な事柄ではなく、社会制度的な事柄である。お布施しかり、戒名しかり、檀家制度しかりである。
こうした問題を仏教側は、とかく教義で説明しがちである。ただ教義を持ち出されると、社会の側は黙るしかない。そして黙れば黙るほど、仏教と社会のズレは広がっていく。
宗教が社会の中で展開している以上、教義だけで説明するのには無理がある。仏教は単なる哲学ではなく、象徴や儀礼がもたらす体験であり、人と人の関わりの中で展開し続ける社会制度なのである。この視点無くして、現実の仏教を理解することはできない。

仏教徒であるか否かにかかわらず多数の観光客が訪れる浅草寺
この連載では、まずお寺と人々の関係性そのものでもある檀家制度を取り上げ、その後、葬式仏教という日本独特の仏教のあり方や、なぜ宗派に縛られなければならないのか、戒名やお布施をめぐる世間とのズレ等について取り上げていきたい。
きれい事を言わせていただければ、この連載を通して、仏教と社会の間に広がるズレの正体を明らかにし、仏教と社会が幸せな関係を育むための一助になればと思う。