2020年10月15日
名匠・黒沢清監督が、歴史サスペンスという新境地に挑んだ。太平洋戦争に突入していく1940年代の日本を舞台にした傑作、『スパイの妻<劇場版>』である(第77回ベネチア国際映画祭・監督賞(銀獅子賞)受賞)。
ただし、膨大な製作費をつぎ込んだ「歴史スペクタクル巨編」ではない。時代に翻弄される夫婦の姿を通して、恐るべき“歴史の闇”が暴かれるまでの顛末を描く本作では、あくまで生身の個人(ミクロ)のドラマを通して、国家主義の台頭・軍部の暴走という、歴史/時代(マクロ)の激動が浮き彫りにされるのだが、以下ではまず、物語のアウトライン、およびその設計/仕組み、そして主要人物の設定について記そう。
――福原優作(高橋一生)は神戸の貿易会社、福原物産の経営者で、ヒロイン・聡子(蒼井優)の夫。開戦間近の1940年、優作は聡子の心配をよそに、甥であり会社の部下である竹下文雄(坂東龍汰)とともに、物資の安い満州へ渡る。優作の帰国後まもなく、文雄は福原物産を辞め、神戸・有馬の旅館「たちばな」に泊まって或る執筆の仕事(後述)をしているが、そんな折、「たちばな」の仲居、草壁弘子(玄理)が水死体で発見される(カメラが俯瞰で短く写す、海に浮かぶ紫色の着物姿の弘子の死体が目を射る)。
聡子は神戸憲兵分隊本部へ呼び出され、分隊長に出世している幼馴染みの津森泰治(東出昌大)に草壁弘子の死を知らされ、また弘子を満州から連れ帰ったのが、夫・優作であることも知らされる(最初は心優しい青年だった泰治が、次第に国家主義に感化され、冷酷で高圧的な男になっていく様を、長身の東出昌大が禍々(まがまが)しく見事に演じている)。
聡子は、死んだ草壁弘子という見知らぬ女と優作の関係を疑い、動揺し、嫉妬心を募らせ、優作を問い詰めるが、やましいことはないと断言する夫を信じようとする(こうして、聡子のさまざまな感情が焦点化されるので、本作は歴史ミステリーであると同時に、メロドラマ・サスペンスの性格を強める)。
優作はといえば、りゅうとした背広姿で仕事に励むブルジョワ実業家だ。しかもハイカラな粋人(すいじん)の彼は、映画撮影を趣味とするシネフィル(映画狂)でもあるが、のちに見るように、優作の撮る映画――作中の<映画内映画>――は本作の重要なモチーフとなる。
優作はまた、国家主義の台頭を懸念する、正義感の強いコスモポリタンだったが、その言動のせいで憲兵に監視されている。しかし中盤までは、心の動きが読めない仮面のような表情をまとう高橋一生の好演により、優作は何を考えているのかが不明な謎めいた男、という印象を放つ。
そうした印象を強めるのが、寝室で懇(ねんごろ)な様子で優作といっしょにいる草壁弘子が、薄暗い部屋の片隅に立つ聡子に向かって、優作さんは嘘のつき方が本当にうまいと言う場面だが、しかしそれは嫉妬にかられた聡子の見た夢のシーンだった。巧みな展開だが、高橋一生はそのポーカーフェイスとともに、芯のある、しかし感情を込めすぎない発声が実にいい。
『スパイの妻』のメインストーリーは、2つの謎――第1の謎は草壁弘子という女の存在、およびその死――を中心にして、その周囲にさまざまな場面が周到に配列される、という仕組みを持つ。
そして、その2つの謎をめぐり、各場面、各人物が密接に結びつき、動的に連鎖していく。よって、さまざまな強度のサスペンスや恐怖が、映画を絶えず活気づけていく。まったくもって、それぞれの劇的ファクターが――一分の隙もなくというのではなく、いくつかの物語的空白を穿(うが)たれつつ――連鎖反応していく、その映画的力動感は凄い。
むろん、それを生んでいるのは、黒沢清ならではの精度の高い画面構成であり、と同時に、黒沢、濱口竜介、野原位(ただし)の共作による、何度も推敲を重ねたという緻密な脚本である。
『スパイの謎』で設定される第2の謎、それは
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