[2]対等性を欠いた制度が抱える構造的な矛盾
2020年10月19日
現代の仏教を語る上で、檀家制度という仕組みに触れないわけにはいかない。檀家制度というのは、お寺と仏教徒の関係性そのものであり、お寺の運営の基盤となっている仕組みでもある。
ところが、この檀家制度というもの、世間ではとても評判が悪い。
よく言われるのは、檀家になると相当にお金がかかるということだ。定期的に寄付を強制されるとか、葬式をする時に何百万円も戒名料を取られるといった噂を皆さんも聞いたことがあるだろう。
確かに檀家になると、ある程度はお金がかかる。しかし、ほとんどのお寺は常識の範囲内でしかお金がかかることはなく、上記のようなお寺はほんの一握りに過ぎない。
ただこの悪いイメージは、まったくいわれの無いことというわけではない。
それは檀家のかなりの割合が、心理的なプレッシャーを大なり小なりお寺から感じているからだ。例えば、葬儀の時にお布施をいくら包めばいいのか教えてくれない、自由意思で行うはずの寄付が「しなくてはならない」雰囲気になっている、檀家を辞めようとしても簡単に辞められないなど、いろんなところでプレッシャーを感じている。やっかいなのは、ほとんどがブラックボックス化し、無言の抑圧となっていることである。
もちろんお寺側は能動的にプレッシャーを与えているわけではない。そうしたプレッシャーをかけていることにうすうす気づいてはいるが、それはお寺として正当な理由があると考えていて、傍観しているだけである。そしてこうした受け止め方のズレが生じるのは、檀家側の認識不足に原因があるとも考えている。
そもそも檀家とは何であるかを述べようすると、これが実に曖昧であることに気付く。実態と定義の間にかなりのズレがあるし、その人が檀家なのか、僧侶なのかの立場によってもかなり受け止め方が異なる。
檀家という言葉は語源的には、「檀那(だんな)の家」という意味である。檀那はサンスクリット語のダーナの音訳で、布施のこと、あるいは布施をする信者のことだ。そうすると檀家は、布施をする人の家であり、言い換えればお寺のスポンサーということになる。
仏教側の基本的な考えは、檀家は檀那、つまりスポンサーだというスタンスである。
確かに歴史的には、スポンサー的な役割を果たしていた時代もあった。ただ現代では、自分自身のことをお寺のスポンサーだと考えている檀家はほとんどいない。お寺の会員であり、そのお寺に専属的に法事や葬儀を依頼する家といった認識の檀家が多いだろう。
現代の仏教には、世間との間で認識のズレのある事柄が多い。代表的なものは「お布施」だが、この「檀家」という事柄も、仏教側と世間ではかなり受け止め方が異なっている。
こうした場合、仏教界で必ずと言っていいほど語られるのが「本来の」という言葉である。「本来の檀家は、檀那、つまりスポンサーのことを言うんですよ」といった具合だ。そして「本来の」という言葉が出てきたとたん、一般の側は反論することができなくなる。「こちらは専門家なんだから」「心得違いをしているのはあなたのほうですよ」と言われているようなものである。
しかしこの「本来の」は、言葉の語源を語っているに過ぎない。語源は大切なものだが、言葉の意味が語源と異なることはいくらでもある。
当たり前のことであるが、人はコミュニケーションする時、現在使われている意味で言葉を使う。語源を意識するかもしれないが、語源の意味でコミュニケーションしているわけではない。
例えば「玄関」という言葉はもともと仏教語で、語源的には「玄妙な道への関門」ということであり、悟りへの入り口という意味がある。
しかし、家の玄関を入ろうした時、「本来の玄関は、悟りへの入り口という意味です。そうした気持ちで玄関を通らなくてはなりません。単なる入り口と考えるのは間違いです」と言われて納得するだろうか。
「本来の檀家は、
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