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檀家はお寺に黙るしかない

[2]対等性を欠いた制度が抱える構造的な矛盾

薄井秀夫 (株)寺院デザイン代表取締役

檀家はお寺のスポンサーなのか?

新型コロナの収束を祈願する檀家(だん・か)の男性=2020年9月22日、岩手県一関市千厩町の安楽寺拡大新型コロナの収束を祈願する檀家の男性=2020年9月22日、岩手県一関市の安楽寺

 そもそも檀家とは何であるかを述べようすると、これが実に曖昧であることに気付く。実態と定義の間にかなりのズレがあるし、その人が檀家なのか、僧侶なのかの立場によってもかなり受け止め方が異なる。

 檀家という言葉は語源的には、「檀那(だんな)の家」という意味である。檀那はサンスクリット語のダーナの音訳で、布施のこと、あるいは布施をする信者のことだ。そうすると檀家は、布施をする人の家であり、言い換えればお寺のスポンサーということになる。

 仏教側の基本的な考えは、檀家は檀那、つまりスポンサーだというスタンスである。

 確かに歴史的には、スポンサー的な役割を果たしていた時代もあった。ただ現代では、自分自身のことをお寺のスポンサーだと考えている檀家はほとんどいない。お寺の会員であり、そのお寺に専属的に法事や葬儀を依頼する家といった認識の檀家が多いだろう。

 現代の仏教には、世間との間で認識のズレのある事柄が多い。代表的なものは「お布施」だが、この「檀家」という事柄も、仏教側と世間ではかなり受け止め方が異なっている。

 こうした場合、仏教界で必ずと言っていいほど語られるのが「本来の」という言葉である。「本来の檀家は、檀那、つまりスポンサーのことを言うんですよ」といった具合だ。そして「本来の」という言葉が出てきたとたん、一般の側は反論することができなくなる。「こちらは専門家なんだから」「心得違いをしているのはあなたのほうですよ」と言われているようなものである。

 しかしこの「本来の」は、言葉の語源を語っているに過ぎない。語源は大切なものだが、言葉の意味が語源と異なることはいくらでもある。

 当たり前のことであるが、人はコミュニケーションする時、現在使われている意味で言葉を使う。語源を意識するかもしれないが、語源の意味でコミュニケーションしているわけではない。

 例えば「玄関」という言葉はもともと仏教語で、語源的には「玄妙な道への関門」ということであり、悟りへの入り口という意味がある。

 しかし、家の玄関を入ろうした時、「本来の玄関は、悟りへの入り口という意味です。そうした気持ちで玄関を通らなくてはなりません。単なる入り口と考えるのは間違いです」と言われて納得するだろうか。

 「本来の檀家は、

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筆者

薄井秀夫

薄井秀夫(うすい・ひでお) (株)寺院デザイン代表取締役

1966年生まれ。東北大学文学部卒業(宗教学専攻)。中外日報社、鎌倉新書を経て、2007年、寺の運営コンサルティング会社「寺院デザイン」を設立。著書に『葬祭業界で働く』(共著、ぺりかん社)、 『10年後のお寺をデザインする――寺院仏教のススメ』(鎌倉新書)、『人の集まるお寺のつくり方――檀家の帰属意識をどう高めるか、新しい人々をどう惹きつけるか』(鎌倉新書)など。noteにてマガジン「葬式仏教の研究」を連載中。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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