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つかこうへいドラマに集まった多彩な顔ぶれ

1982年『つか版・忠臣蔵』てんまつ記⑤

長谷川康夫 演出家・脚本家

 1982年12月31日にテレビ東京で放送された『つか版・忠臣蔵』はどのようにつくられたのか。シリーズの5回目、多彩なスター俳優も交えて、いよいよ本格的なリハーサルが始まります。

(顚末記のこれまで、1回目2回目3回目4回目

臨機応変な配役、必死さが際立った

 1982年11月。ドラマ『つか版・忠臣蔵』の正式なリハーサル前に、千田スタジオで行われた我々劇団員だけでの予備稽古は、二、三日続いたろうか。その中で徐々に配役も決まっていく。

拡大平田満(1988年撮影、左上)、風間杜夫(87年撮影、右上)、石丸謙二郎(2006年撮影、左下)、萩原流行(85年撮影、右下)
 5月の記者発表では、「宝井其角・平田満」「近松門左衛門・風間杜夫」などと、構想を語ったつかだが、そんなことはすっかり忘れているらしく、平田が大石内蔵助、風間が宝井其角の他、吉良上野介を石丸謙二郎、柳沢吉保を萩原流行と、役は与えられていった。もちろんどの役も何人かが交替で演 じ、それぞれ台詞が出来上がっていくのは、つか流のいつもの口立て稽古と変わりがなかった。

 高野嗣郎の「準備稿」でのエキストラ扱いから復活した、問題の大高源吾は結局、僕に振られた。つまり僕は最初に決まった磯田武太夫との二役を演じることになったのだが、なんとつかは、それを強引に同一人物としたのだ。

 大高源吾は赤穂藩断絶後、生活のために公儀介錯人のアルバイトをしているという設定となり、内蔵助を其角のもとに案内してきた折、内匠頭の仕出かした事件を聞かされ、「俺そういえば、なんか今日、誰かの介錯、頼まれてた」と、駆け出していくのである。

 家来がたまたまバイトで、自分の殿様の切腹に当たってしまった――とすることで、内匠頭に正しく辞世の歌を詠(よ)ませようとするその男の必死さが、より切実な意味を持つという、まさに「口立て」による臨機応変な芝居作りならではの効能である。

 そして結果、物語の出発で、そんな〝何でもあり〟のつかこうへいワールドを、まず視聴者にわからせる場面ともなったのだから、怪我の功名とも言えるだろう。

 しかしそうであっても、この切腹場面が、ドラマの流れとして大きくバランスを欠いたシーンであることは、やはり認めざるを得ない。


筆者

長谷川康夫

長谷川康夫(はせがわ・やすお) 演出家・脚本家

1953年生まれ。早稲田大学在学中、劇団「暫」でつかこうへいと出会い、『いつも心に太陽を』『広島に原爆を落とす日』などのつか作品に出演する。「劇団つかこうへい事務所」解散後は、劇作家、演出家として活動。92年以降は仕事の中心を映画に移し、『亡国のイージス』(2005年)で日本アカデミー賞優秀脚本賞。近作に『起終点駅 ターミナル』(15年、脚本)、『あの頃、君を追いかけた』(18年、監督)、『空母いぶき』(19年、脚本)などがある。つかの評伝『つかこうへい正伝1968-1982』(15年、新潮社)で講談社ノンフィクション賞、新田次郎文学賞、AICT演劇評論賞を受賞した。20年6月に文庫化。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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