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学術会議会員の任命拒否は、人事だからこそ、その理由を言わねばならない

三島憲一 大阪大学名誉教授

日本学術会議の第1回総会。科学を通じて日本の平和的復興と人類の福祉に貢献するとの声明を発表した=1949年1月20日日本学術会議の第1回総会。科学を通じて日本の平和的復興と人類の福祉に貢献するとの声明を発表した=1949年1月20日

 1951年、日本学術会議が全国の研究者を対象に行ったアンケートに、過去十数年において「学問の自由」が最も実現されていたのはいつでしたか、といった問いがあった。この問いに対して「戦時中」という答えが一番多かったそうだ。このエピソードを紹介するのは、天文物理学者の池内了氏だ(『科学者と戦争』岩波新書)。

 たしかに戦時中は、自然科学の研究室に軍事目的のお金が大量に流れ込んでいた。1951年といえば戦後の混乱が少しは収まり、市民の多くが新しい民主主義を懸命に生き始めた頃だ。それなのに「学問の自由」の理解はこの程度だった。がっかりだ。好き勝手にお金が使える「自由」と、公権力からの「学問の自由」の法的保障とはまったく異なるのだが。

 お金が使える「自由」は、自由をめぐる議論では、むしろ「恣意」とか「勝手」と言うべきだろう。「自由」とは権利につながる言葉だ。

「学問の自由」と結びついた政治的敏感さ

発言する益川敏英・京都大名誉教授(前列中央)。右は上野千鶴子・東京大名誉教授、左は佐藤学・学習院大教授=東京都千代田区の学士会館20150720安保法制に反対して発言をする益川敏英・京都大学名誉教授(前列左)。右は上野千鶴子・東京大学名誉教授=2015年7月20日、東京都千代田区の学士会館

 エピソードをもうひとつ。2008年度ノーベル物理学賞を受賞した益川敏英氏は、ストックホルムでの受賞演説を父親の話から始めた。家具の会社を作るという父親の夢は戦争で実現しなかったと語りながら、「自国が引き起こした悲惨で無謀な戦争で無に帰しました」とつけ加えた。

 氏の語るところによると、帰国後、学会のある人から、受賞演説で政治の話はしない方がよかったのでは、といった注意を受けたそうだ(『科学者は戦争で何をしたか』集英社新書)。益川氏のような学者なら、政治によって科学どころか生活までズタズタにされたことに敏感な指摘をするのが当然なのに、21世紀になってもまだこうした怪しげな政治的中立、いや政治的無関心を信条として、ノーベル賞受賞者にすら注意する学会仲間がいるようだ。

 こうした中で、公権力の介入と資本の誘惑から「学問の自由」を守るためにこそ政治的敏感さが必要であるとする感性の維持に努めてきたのが、日本学術会議だ。「学問の自由」は政治的敏感さとわかちがたく結びついているという確信は、学術会議を超えて日本の研究者に広く共有されている――と思いたい。最初の二つのエピソードを考えると「思いたい」としか言いようがないが、この問題に関する学術会議の意義は大きい。だからこそ環境汚染であれ、遺伝子組み換えであれ、ジェンダー配分であれ、政治的でもあるさまざまな問題に学術の立場から貴重な提言をこの組織はしてきた――ご意見番としての宣伝は上手ではなかったかもしれないし、専門エゴを押さえ込んで、原発廃止などの提案はやろうとしてもできなかったようだが。

 この学術会議の会員推薦名簿のうち6人の任命を首相が拒否するという大事件が発生した。学術関係者だけでなく、映画界をはじめさまざまな分野から批判と抗議の声が、そしてあきれたという嘆きの声があがっている。

口先で言いまかすことと納得してもらうことの区別

 政権側もつじつま合わせの防戦に忙しい。「総合的かつ俯瞰的」からはじまって、任命権の解釈の変更のありやなしやについての、また、最終絞り込みへの首相の参加度、排除の決定段階での杉田和博官房副長官の役割についてのあいまいな説明、そして「学問の自由」の手前勝手な解釈などなど、火消しのバケツのなかにあやまってガソリンが入っていたものを含めて(官僚も頭が悪くなったのかな)、あれこれ知恵を出しているようだ。

 だが、口裏合わせほど手間がかかって能率が悪く、そのうえ信用できないものはないことは、本当は誰でも、そして本人たちも分かっている。

 つじつま合わせの形式的議論と、聞いている人が「なるほどそのとおり」と腑に落ちる議論とはまったく異なる。口先で言いまかすことと納得してもらうことの区別

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