芸術的良心、アリバイ的隠れ家

文学座アトリエ(左)、壁(右)にはラテン語で「この世は舞台」という意味の言葉と女神像の浮き彫りがある
アトリエは以上の方針を以て運営されるが、時として、文学座の本公演ではリスクを高く予想される実験的台本を採用する場合もある。(中略)本公演では見られぬような、難解或いは急進的な芸術性を持つ台本をも、手がける場合を生ずるだろう。それをアトリエ本来の仕事と考えてもいいし、文学座の実験的公演と考えてもいい。そこに質的区別はない。そこに文学座とアトリエの不可分の関係がある。ただその試演の規模の大小があるのみである。
つまりアトリエは、文学座の芸術的良心というか、商業主義に流れない、武士は食わねど高楊枝といった新劇的系譜の、ややアリバイ的な隠れ家だったのかもしれない。
アトリエが冒険的な試演をなす場合に、前衛劇がとりあげられる場合が多いだろう。しかしいかに度々前衛劇が上演されても、アトリエは前衛劇団とはならない。アトリエはいかなる演劇思想とも関係がない。保守的にも進歩的にもなり得ない。
前衛劇をやっていても前衛劇団にならないというのは、ちょっと気になる表現だ。実はこのあたりに文学座という劇団の本質がかいま見えるような気がする。引用の最後のくだりは、「アトリエはあらゆる演劇思想と関りがある。保守的にも進歩的にもなり得る。」と読み替えることもできるだろう。
アトリエの上演目録は、従って、あらゆる時代と種類の劇を含むだろう。ただその選択はその時々の研究状態が決定すべきである。
というわけでどうやら、冒頭の「世間と時流に無関係な」というくだりとはやや矛盾した結論に至っているような気もするが……。

文学座アトリエの会で上演された『NASZA KLASA(ナシャ・クラサ)私たちは共に学んだ』(髙瀬久男、2012年)。第2次大戦下のポーランドを舞台に、同じ教室で学んだ10人の男女の運命を描く=飯田研紀撮影