前田和男(まえだ・かずお) 翻訳家・ノンフィクション作家
1947年生まれ。東京大学農学部卒。翻訳家・ノンフィクション作家。著作に『選挙参謀』(太田出版)『民主党政権への伏流』(ポット出版)『男はなぜ化粧をしたがるのか』(集英社新書)『足元の革命』(新潮新書)、訳書にI・ベルイマン『ある結婚の風景』(ヘラルド出版)T・イーグルトン『悪とはなにか』(ビジネス社)など多数。路上観察学会事務局をつとめる。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
【29】高倉健「唐獅子牡丹」
良き〝はやり唄〟には、優れた記憶喚起力がある。それに加えて、その唄にまつわる世代的な共通体験と、さらにその上に個人的なエピソードが重なれば、その〝はやり唄〟の記憶喚起力は間違いなくいや増す。
今回取り上げる「唐獅子牡丹」は、私にとっては、まさにその典型といえるかもしれない。
この唄を聞くと、世代的な共通体験と個人的な体験とがあいまって、脳裏に、半世紀以上も昔の出会いが、今もたちどころに立ち上ってくるからだ。
歌:高倉健「唐獅子牡丹」
作詞:水城一狼/矢野亮、作曲:水城一狼
時:1966年
場所:東京都浅草/同青梅市東青梅
まず世代的な共通体験から記すと、時は1968年某月の週末の夜半。街頭ではベトナム反戦のデモが繰り広げられ、キャンパスではバリケードが築かれはじめたころで、当時大学3年の私もその渦中にいた。デモか集会がひけたあと、そこで一緒だった友人たちから、池袋の映画館「人生坐」か「文芸座」のオールナイト興行に誘われたのである。
それはヤクザ映画の4本か5本立で、そのうち何本かは高倉健主演の「昭和残侠伝」シリーズだった。第一作が2、3年前に封切られて話題になっていることは知ってはいたが、家父長的価値観に基づく〝時代遅れの遺物〟という予断から敬して遠ざけていた。
その友人たちは、いずれもあの時代の学生運動の周辺にはよくいたトレンド・ウォッチャーで、理系の私に、西銀座の「アートシアター」でヌーベルバーグの魅力を開眼させてくれたのも、渋谷の「ブルーノート」でモダンジャズは眉根をよせて足でリズムをきざみながら一人で聴くのが作法だと伝授してくれたのも、新宿の「風月堂」でフーテン族を相手に実存主義や不条理劇の芸術論をたたかわせる知的格闘技の技を仕込んでくれたのも彼らだった。
誘われるままについていったものの、トリュフォーやゴダール、コルトレーンやマイルス、サルトルやイヨネスコとマルクスは同居できるが、はたしてそこに旧体制の規範に属するヤクザ映画が入り込む「余地」はあるのだろうかと戸惑いをおぼえた。しかし、その「余地」は十分すぎるほどにあったのである。