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『おらおらでひとりいぐも』――惚れた男が消えて、老いた女はどこへ行く

丹野未雪 編集者、ライター

決定的な印象を与える桃子さん=田中裕子の表情

 子どもたちは独り立ちし、専業主婦であることの意味が消え、夫が亡くなり、出かける先といえば病院と図書館で、友だちらしき友だちもいない。かかってくる電話はオレオレ詐欺だし、若いセールスマンには「お母さん」と呼ばれ、楽しみは気まぐれに訪ねてくる娘と孫娘ぐらい。認知症の気配もある。たった一人、部屋で過ごす桃子さんは、ばっちゃを思い出していう。「こういうふうになってしまった。これでいいのすか」。

 桃子さんは多くを語らない。私たちの祖母や母が、おいそれと心を打ち明けなかったように。桃子さんを演じる田中裕子の表情は、天気のようにさりげないが、しかし決定的な印象を与える。一見、無表情とみなされるだろう曇天のごとき表情からにじみ出る、感情の濃淡。陽が差したような微笑みの明度。身体の表情にも惹きつけられた。新婚時代とは別人のようにゴキブリを叩きのめす腰の入り方、疲労と歩幅、土俵入りのような湿布貼りの厳かさよ!

若竹千佐子拡大若竹千佐子『おらおらでひとりいぐも』(河出書房新社)
 対して同名の原作(若竹千佐子著)では桃子さんの人生が、内面が、東北弁によってうねるように語られる。幾人もの桃子さんが「古層」からやって来てはそれぞれ勝手に意見を連ねていく。ああすることもできた、仕方なかった、あっぱれだ、いやいやまだできる……方言がもつゆたかな変調とたたみかけるリズムはまるでジャズ・セッションだ。とりとめなく湧き上がる喜怒哀楽がつぎつぎと語られていくうち、ほんとうの思いのすがたを発見するよろこびは、原作でしか味わえない愉楽でもある。

 映画では桃子さんが「クソ周造なぜ死んだ」と夫をなじって歌う歌謡ショーの場面があるが、

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筆者

丹野未雪

丹野未雪(たんの・みゆき) 編集者、ライター

1975年、宮城県生まれ。ほとんど非正規雇用で出版業界を転々と渡り歩く。おもに文芸、音楽、社会の分野で、雑誌や書籍の編集、執筆、構成にたずさわる。著書に『あたらしい無職』(タバブックス)、編集した主な書籍に、小林カツ代著『小林カツ代の日常茶飯 食の思想』(河出書房新社)、高橋純子著『仕方ない帝国』(河出書房新社)など。趣味は音楽家のツアーについていくこと。

※プロフィールは、論座に執筆した当時のものです