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 多くのメディアが報じたように、亡くなった筒美京平は実に多作の人だった。残した作品は2700曲以上、しかも多数のヒット作品を含んでいた。ヒットチャート1位が39曲、レコードの総発売枚数は7500万枚を超えるという。

2700以上の曲をつくり、希代のヒットメーカーだった筒美京平=ソニーミュージック提供 拡大作曲数2700以上、希代のヒットメーカーだった筒美京平=ソニーミュージック提供

 この希代のヒットメーカーは、表舞台に登場することはほとんどなかったが、インタビューなどでは、売れる曲をつくるプロであることをさりげなく強調した。デビュー以来約30年間に発表した作品を振り返って、筒美はこう語っている。

……音楽を作るっていうのとヒット曲を作るっていうのはちょっと違うような気がする。音楽を作りながらその線上でヒット曲がたまたま生まれるとかいうんじゃなくて、いつもヒット曲を作るってことが面白かったんじゃないかな。(『レコード・コレクターズ』第17巻第1号、1998)

 「ヒット曲」には「戦略」がある。最初のミリオンセラー(約150万枚)である「ブルー・ライト・ヨコハマ」(1968)は、橋本淳(詞)と筒美(曲)という希代のコンビの作品だが、当時の歌謡曲の大きな趨勢に乗りながら、只今の流行りを見事に外した戦略商品だ。

いしだあゆみ「ブルー・ライト・ヨコハマ」=日本コロムビア提供 拡大いしだあゆみ「ブルー・ライト・ヨコハマ」=日本コロムビア提供

 「大きな趨勢」とは、いうまでもなく歌謡曲のポップス化である。その極みが黛ジュンの「恋のハレルヤ」(詞:なかにし礼、曲:鈴木邦彦、1967)。この名曲を筆頭に、“パンチとコブシ”を利かせた「ビート歌謡」がにわかに流行り始めた(女王・美空ひばりも同年、「真赤な太陽」[詞:吉岡治、曲:原信夫]でこれに追随している)。

 このアクの強い曲調とアツい歌唱をどう外すかに戦略の焦点があった。橋本は点景をつなぐような乾いた詞で、筒美は細かい譜割によるテンポ感で、いしだあゆみは薄く軽い声で、「ビート歌謡」とは別の世界観を打ち出したのである。この和風ボサノヴァは、当時の聴き手にひどく新鮮なものに映った。

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筆者

菊地史彦

菊地史彦(きくち・ふみひこ) ケイズワーク代表取締役、東京経済大学大学院(コミュニケーション研究科)講師

1952年、東京生まれ。76年、慶應義塾大学文学部卒業。同年、筑摩書房入社。89年、同社を退社。編集工学研究所などを経て、99年、ケイズワークを設立。企業の組織・コミュニケーション課題などのコンサルティングを行なうとともに、戦後史を中心に、<社会意識>の変容を考察している。現在、株式会社ケイズワーク代表取締役、東京経済大学大学院(コミュニケーション研究科)講師、国際大学グローバル・コミュニケーションセンター客員研究員。著書に『「若者」の時代』(トランスビュー、2015)、『「幸せ」の戦後史』(トランスビュー、2013)など。

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