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歳末ドラマ撮影開始、そこに事件が

1982年『つか版・忠臣蔵』てんまつ記⑦

長谷川康夫 演出家・脚本家

幅広い出演者、加藤健一・根岸季衣の不在

 さらに企画書で謳われたように、番組へのオーディションによって出演が決まった俳優たちもいた。

 そのオーディションなるものは、10月5日の『蒲田行進曲』の本番前、紀伊國屋ホールの舞台を使い、数時間かけて行われた。1500人もの応募者の中から書類審査を経た男女約60人が参加し、珍しくつかこうへい自身によって(それまで劇団員募集のオーディションなどに、つかが姿を見せることはほぼなかった)10名が選ばれ、『つか版・忠臣蔵』の出演者に名を連ねた。

 中でも、日大芸術学部で同期だった石丸謙二郎に誘われ応募したという加藤益弘は、その肥満気味の身体とブルドックを思わせる風貌が、原作小説でのキャラクターとそのまま重なり、つかが大いに気に入って、幕府の目付け多門伝八郎という重要な役を任されることになる。

 彼は日芸内で活動を続けていた劇団『GAYA』の座長だった。『GAYA』というのは、1980年公開の映画『狂い咲きサンダーロード』ブレイクし、人気俳優となっていた山田辰夫の他、のちに演劇界で評判を呼んだ『劇団カクスコ』を結成する中村育二、井之上隆志、岸博之などの役者たちが皆、所属していた劇団だが、この時点ですでに解散が決まっているという話だった。

 不思議なのは、つかがこれほど広く出演者を集めておきながら、長く彼の芝居を支え、直前まで解散公演の舞台に立っていた根岸季衣や加藤健一の名が、その中にないことだろう。

拡大加藤健一(手前)は「加藤健一事務所」を作って40年。来年はロナルド・ハーウッド作『ドレッサー』を2月から6月まで全国で上演する。左は共演の加納幸和
加藤健一事務所
 加藤健一に関して言えば、理由ははっきりしている。彼が12月に自分の芝居を控えていたからである。

 加藤は80年11月の『蒲田行進曲』初演で、銀ちゃん役を演じているが、その稽古に入る直前の8月、『審判』という一人芝居によって『加藤健一事務所』を旗揚げしている。

 『つかこうへい正伝 1968-1982』執筆時のインタビューで、加藤がその時の思いを「僕の中では、自分はずっと『つかこうへい事務所』の外部の人間だったから」と語ったのに驚き、「“口立て”は楽しいんだけど、活字から感情を起こす作業をやってないと、役者としてダメになるんじゃないかって気持ちもあって」という言葉にどこか納得させられたことは、拙著

拡大長谷川康夫著『つかこうへい正伝 1968―1982』(新調文庫)
の中ですでに書いた。

 その『加藤健一事務所』は、81年に3公演。82年にも紀伊國屋ホールなどで3公演を打ち、加藤の『蒲田行進曲』出演を挟んで、12月3日から新しい芝居の上演も決まっていた。

 つかこうへいに引きずられることなく、その後40年続くことになる演劇人としての独自のステップを、その頃、着実に踏み始めていた加藤にとって、当然ながら『つか版・忠臣蔵』への参加は、はなから無理だったわけである。

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筆者

長谷川康夫

長谷川康夫(はせがわ・やすお) 演出家・脚本家

1953年生まれ。早稲田大学在学中、劇団「暫」でつかこうへいと出会い、『いつも心に太陽を』『広島に原爆を落とす日』などのつか作品に出演する。「劇団つかこうへい事務所」解散後は、劇作家、演出家として活動。92年以降は仕事の中心を映画に移し、『亡国のイージス』(2005年)で日本アカデミー賞優秀脚本賞。近作に『起終点駅 ターミナル』(15年、脚本)、『あの頃、君を追いかけた』(18年、監督)、『空母いぶき』(19年、脚本)などがある。つかの評伝『つかこうへい正伝1968-1982』(15年、新潮社)で講談社ノンフィクション賞、新田次郎文学賞、AICT演劇評論賞を受賞した。20年6月に文庫化。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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