1982年『つか版・忠臣蔵』てんまつ記⑧
2020年12月13日
1982年11月21日、テレビ東京のドラマ『つか版・忠臣蔵』の撮影が始まった。十分なリハーサルを経て、あとは撮るだけ……のはずだった。だが、その朝、スター俳優、沖雅也が体調不良で出演できないと連絡が入った。ドラマてんまつ記、いよいよ大詰めです。
これまでは、①、②、③、④、⑤、⑥、⑦
こういったアクシデントに直面した時、逆に高揚し、驚くほどの開き直りと、はったりじみた打開策をみせてくれるのが、つかこうへいである。
しかしその代役を誰にするのか――。
すぐに新しい俳優を呼べるはずもなく、どう考えても、今いる出演者の中から選ぶしかない。
さいわい、つか流の“口立て”でのリハーサルによって、僕ら劇団員たちなら皆(まぁ酒井敏也や高野嗣郎は別として)、沖雅也が演じる近松門左衛門の台詞はほぼ入っている。近松との芝居場がいくつもある宝井其角の風間杜夫は不可能としても、つかの中では、誰かが二役を演じれば何とかなるという思いがあったのだと思う。
とは言っても、大石内蔵助の平田満も、吉良上野介の石丸謙二郎も、その役回りからして、別場面で近松として登場するには無理がある。大高源吾の僕に至っては、前述したように、もともと二役であり、そうしないためにかなり強引な設定を持ち込んだということもある。
必然的に沖の代役は、萩原が吉保との二役で務めることになった。
撮影は多少の遅れが生じただけで、何事もなかったように再開され、当初のスケジュール通り、3日ですべて終了した。
しかし沖雅也の不在が、ドラマ作品としての『つか版・忠臣蔵』の出来ばえに大きく影響してしまったことは否めない。それに関しては後述する。
「やっぱり四十七士の墓に、演(や)らせてもらうってちゃんと報告しとかないから、こういう事態が起こるんじゃないか」
前日の撮影終了後、そんなことを言い出したのは平田だった。同意した僕たちは局に入る前に泉岳寺に向かい、自分が演じる相手の墓碑に手を合わせたのだ。タクシーを飛ばせば、テレビ東京まで10分もかからない。
今思い返せば笑い話だが、そのときはそれなりに真剣だった。沖の急病という不吉なアクシデントに、僕らも動揺していたのだ。
しかしその急病というのが、実は我々の案じたようなものではなく、沖の精神的な不調であることを知るのに、そう時間はかからなかった。
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