フィクションとノンフィクションを越境する二人の共通点
2020年12月20日
今から半年前くらいに、僕は文庫になって結構経っていた沢木耕太郎のエッセイ『ポーカーフェース』を読んでいた。その中の1編「マリーとメアリー」という文章を読んで、僕は面白い事実に突き当たった。その瞬間、僕の中で何かが腑に落ちたような感覚があった。それは、僕が、今まで抱えていた、形のない思いに、輪郭を与えてくれた事件でもあった。
普段はお酒に無頓着な沢木だが、唯一、こだわりを持っているお酒がある。それがブラッディー・マリーだった。それは、初めてハワイ行きの国際線に乗ったときに飲んだもので、それがとてもおいしく感じられ、それ以降、飛行機の国際線に乗る際には、必ずブラッディー・マリーを注文するようになった。沢木は、マリーがフランス語の読み方であるからには、名前の由来は、フランス革命の際、断頭台で処刑されたマリー・アントワネットだろうと思いこんでいたところ、アメリカ人の友人が、メアリーと発音しているのを目撃し、驚く。
と、いったふうに話は進んでいくのだが、問題はその後だ。2年前、ドイツから日本に戻る飛行機の中で、沢木が普段と同じく「ブラッディー・メアリー」を注文したところ、日本人の客室乗務員にこう指摘されるのである。
「ムラカミさんと同じなんですね」と。
まだ文章の中では、このムラカミさんが村上春樹とは、明かされていない。でも、僕は、過去に村上春樹がブラディ・メアリー(村上作品での書き方はこうなる)を飛行機の中で飲むという記述を作品で読んだことがあった。だから、すぐにこれが村上春樹であることはわかったのだ。そして、さらにこうも思ったのだった。ふたりの共通点は、もっといっぱいあるんじゃないか、と。
僕は沢木耕太郎と村上春樹にもっとも影響を受けた。そのふたりの著作を一番よく読んでいるからだ。
沢木耕太郎で一番最初に読んだのは『テロルの決算』だった。衝撃だった。僕がまだ20代で週刊誌の記者をやっていた頃だ。僕が驚いたのは、その物語の構成力だった。それまで、ノンフィクションというものは、事実を淡々と記述するものという認識を持っていた。だが『テロルの決算』は全然違った。そのストーリー性というと、なんだかノンフィクションとして陳腐に聞こえるが、最後の一点に向かっての、必然としかいいようのない展開に圧倒されたのだ。それ以降、各ノンフィクション賞の受賞作をチェックし、過去のものも含めて、ノンフィクションを貪り読むようになった。また、『深夜特急』を読んで、社会人になってからの遅れてきたバックパッカーになったりもした(現在も進行中)。
時を同じくして、僕は、記者をやりながら『クイック・ジャパン』という雑誌にライターとして寄稿するようになっていた。その雑誌は、赤田祐一さんという編集者が作った雑誌で、僕はそこに載っているルポが大好きでよく読んでいたのだ。そこに載っているルポは一風変わったものが多く、それが『ニュージャーナリズム』という、その雑誌が掲げていたライティング・スタイルによるものだということは、記事を読み出した当初は、あまり意識していなかった。
しかし、実際にルポを書かせてもらえるようになったころには、ニュージャーナリズムについても興味を持って、トム・ウルフやゲイ・タリーズ、ハンター・S・トンプソンなどといったアメリカのニュージャーナリズムの代表的な作家の作品を読んだりした。そうすると、点と点が結びつくのは時間の問題だった。沢木耕太郎の存在がここでまた浮上して
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください