三浦俊章(みうら・としあき) ジャーナリスト
元朝日新聞記者。ワシントン特派員、テレビ朝日系列「報道ステーション」コメンテーター、日曜版GLOBE編集長、編集委員などを歴任。2022年に退社
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
初のアフリカ系アメリカ人大統領へと自らを駆り立ててきたものは何なのか
伝記や自伝を読む楽しみは、主人公の起伏に富んだ道のりに、読み手が自らの歩みを重ねることができるからだろう。とすると、一般的には政治家の自伝ほどつまらないものはない。都合の悪いことは隠し、往々にして強烈な自己賛美が続くからだ。そういう中で、今年11月にアメリカで出版されたバラク・オバマ前大統領の回顧録『約束の地』は例外かもしれない。心の奥深くで自分を駆り立てきたものは何なのか。オバマは、深い自己省察を繰り返しながら半生を振り返る。強みも弱みも心の迷いも、ここまで正直に書いた政治家がいただろうか。
クライマックスは大統領選への出馬を決めた日のことだ。妻ミシェルは強く反対した。「バラク、なぜあなたなの。なぜあなたが大統領になる必要があるの?」。考え込んだオバマが出した答えとは……
バラク・オバマ前アメリカ大統領の回顧録『約束の地』については、前回のこのコラム「三浦俊章の現代史の補助線 書評×時評 バラク・オバマ回顧録『約束の地』に秘められたメッセージ」で取り上げた。そこでは、オバマの冷徹な目でスケッチされた主要国のリーダーたちの人物像を紹介するとともに、公民権運動のキング牧師から学びとった、人種を越えたアメリカへの熱い想いがオバマの政治性活動を支えてきたことを指摘した。今回は、オバマという人間がいかにしてオバマになったかという、自己形成の物語として回顧録を読み解いてみたい。(この原稿は歴史叙述の色彩が濃いので、敬称は省略する)
オバマには、政治家になる前の弁護士時代に書いた”Dreams from My Father”(邦訳『マイ・ドリーム バラク・オバマ自伝』ダイヤモンド社)という著作がある。だぶりを避けるためだろうか、今回の回顧録では前著で触れた細かい伝記的な事実は省かれている。ここでは読者の便宜のため、ニューヨーク・タイムズ紙が当選直後の2009年に出した選挙ドキュメント記録”OBAMA The Historic Journey”(邦訳『オバマ 希望への道』、岩波書店)などをもとに必要な情報を補いながら、彼の人生を追ってみよう。
オバマは1961年8月4日、ハワイのホノルルで生まれた。母はカンザス州出身の白人女性アン・ダナム。父はケニア人のバラク・オバマ・シニアであり、オバマは父の名前を受け継いだ。
オバマ・シニアは、ハワイ大学に留学中であり、両親は大学のロシア語の授業で知り合った。いくらハワイが多様な民族が混住している土地だといっても、60年代初頭においては黒人と白人との結婚はきわめて異例だった。母のダナム家側が不安を覚えただけではない。父のオバマ家側も「白人女性との結婚で血統が汚される」と怒っていたという。
人種を越えた愛だったが、長くは続かなかった。父はまもなく母と幼い息子を残してハーバード大学の大学院に移り、離婚した。オバマがその後、父に会ったのは10歳のとき、一度だけである。経済学者となった父はケニアで要職に就き、複数の妻との間に多くの子を残したが、82年にナイロビで、交通事故で亡くなった。
母のアンはその後、インドネシア人の学者と結婚、オバマは6歳から10歳までをジャカルタで過ごした。新しい父と母との間には妹マヤが生まれた。母の二度目の結婚も長くは続かなかった。人類学学者になった母は、各地をフィールド・トリップで回り、家を留守にすることが多かった。オバマは、ハワイに戻り、母方の祖父母とともに暮らし、中学高校へと通う。学校は、ハワイの名門私立プナホウ校だった。