1964年生まれ。法政大学中退、レニングラード大学中退。著書に『身近な人に「へぇー」と言わせる意外な話1000』(朝日文庫)、『地獄誕生の物語』(以文社)、『ポスト学生運動史』(彩流社)など。本の情報サイト『好書好日』で「ツァラトゥストラの編集会議」の構成担当。総合誌『情況』にてハードボイルド小説「黒ヘル戦記」を連載中。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
【1】「ランボー」の原作を読んでみた
AmazonプライムやNetflixなどの普及によって、映画が手軽に見られるようになりました。新作だけでなく、昔、映画館やテレビで観た映画、見逃していた名作などもスマホで観られます。映画がこれほど身近になった時代は、かつてなかったでしょう。
が、映画の原作はどうかというと、映画に比べれば意外と読まれていません。原作が読まれていないのは、多くの人が「映画を観てわかったつもり」になっているからでしょうが、本当に映画を観ただけで、原作はわかるのでしょうか。
本連載は、そんな疑問に答えるものです。これを読めば、原作を読まなくても「わかったつもり」になれます!
まず第1回目はシルヴェスター・スタローン主演の人気シリーズで完結編が昨年公開された『ランボー』をとりあげます。
ランボーの原作を読もう。ランボーシリーズの最新作『ランボー ラスト・ブラッド』を映画館で観た帰り道、私はそう思った。70代の高齢者になったランボーを見て、若い頃のランボーが懐かしくなったのだ。
が、昔のランボー映画を観ようとは思わなかった。もう何度も観ているからである。映画館でも観たし、テレビでも観たし、レンタルビデオでも観たし、動画配信サービスの会員になったのもランボーが観たくなったからだ。私は人生の要所要所でランボーを観てきたのである。
それで、今度は映画『ランボー』(1982年)の原作になった小説を読むことにした。原作の小説を読むことで、ランボーの違った一面が見えるかもしれない。そう思ったのである。
映画『ランボー』の原作は、デイヴィッド・マレルの小説『一人だけの軍隊』である。デイヴィッド・マレルは1943年生まれ。ホラー作家としても有名で、「吸血鬼ドラキュラ」の作者の名を冠したブラム・ストーカー賞も受賞している。1972年、『一人だけの軍隊』を発表し、一躍、人気作家となるのだが、この小説はマレルが初めて書いた長編で、大学院に籍を置いていた20代の後半に3年の月日を費やして書いたという。
マレルはこの作品でベトナム帰還兵のPTSD(心的外傷後ストレス障害)の問題を扱っている。ニクソン大統領が「ベトナム戦争の終結」を宣言したのは1973年1月29日。マレルがこの作品を発表した時、ベトナム戦争はまだ終わっていなかったわけだが、PTSDの問題はすでに顕在化していたのである。
この作品は戦闘シーンのリアルな描写が読みどころとなっているが、マレルに従軍経験があるわけではない。マレルはかなりのインテリで、作家活動を続けながら、「アメリカ文学と近代文学」の講座をもつ大学教授も勤めている。70代になっても銃を持って戦い続けるランボーとは違う人生を選んだのだ。
私の手元にある『一人だけの軍隊』は沢川進訳のハヤカワ文庫版である。『一人だけの軍隊』というタイトルは邦題で、原題は「First Blood」である。映画のタイトルは国によって異なり、アメリカ、イギリスなどの英語圏では『First Blood』で公開されたが、その他の国では『Rambo』だった。ランボーシリーズはその後、『ランボー/怒りの脱出』(原題は「Rambo : First Blood Part II」)、『ランボー3/怒りのアフガン』(原題は「Rambo Ⅲ」)と続くが、4作目の『ランボー/最後の戦場』はややこしく、アメリカではこの作品が『Rambo』となっている。また、1作目との混乱を避けるため、『John Rambo』としている国もある。
「First Blood」には格闘技の試合での「流血戦の始まり」といった意味がある。プロレスでいうと、「おーっと、猪木の額が割れました。流血です。流血戦になりました」という時、この言葉を使う。映画では、ランボーが無線でトラウトマンに「やつらが先にからんできた」と訴えるシーンでこの言葉が出てくる。