【2】「野獣死すべし」の原作を読んでみた
2021年01月17日
松田優作主演の映画『野獣死すべし』(1980年)で最も印象に残っているのは、松田優作が演じる伊達邦彦と彼を追う柏木刑事(室田日出男)が夜行列車の中で対決するシーンである。伊達は柏木刑事に銃口を向けながら「リップ・ヴァン・ウィンクルの話って知ってます?」と静かに語り始める。
映画公開時、高校生だった私は、友人たちと何度も繰り返し、このシーンを再現した。対面式座席の列車に乗った時はもちろん、ファミレスで向かい合った時も、伊達邦彦の特徴である「夢見るような表情」をして、私たちはリップ・ヴァン・ウィンクルの物語を語った。
今振り返ると、そんなことをして何が面白かったのかわからないのだが、このシーンには高校生の琴線に触れるものがあったのだろう。
リップ・ヴァン・ウィンクルの物語は、アメリカのオランダ系移民の間に広がる伝承で、アメリカ文学の父と呼ばれるワシントン・アーヴィングの短編集『スケッチ・ブック』に収載されている。
話の内容は、映画の中で松田優作が語っている通り。狩りに出かけたリップ・ヴァン・ウィンクルが山で小人と出会い、酒をご馳走になる。リップ・ヴァン・ウィンクルはしたたかに酔い、深い眠りに落ちる。目が覚めると辺りの様子が変わっている。小人もいない。山を下りて村に帰ると村の様子も変わっている。妻もいない。寝ている間に20年の歳月が過ぎていたのだ、というアメリカ版の浦島太郎物語である。
柏木刑事はこの話を聞いて、「あんたには、はじめから妻なんていなかったじゃないか」と言う。それに対して伊達邦彦は「僕の話をしてるわけじゃないでしょう。リップ・ヴァン・ウィンクルの話をしているんですよ」と答える。
たしかに伊達の言う通りで、伊達はリップ・ヴァン・ウィンクルの話をしただけだ。ではなぜ、伊達邦彦はリップ・ヴァン・ウィンクルの話をしたのか。なぜ、刑事との対決という重大な局面でリップ・ヴァン・ウィンクルの話をしたのか。何度映画を観ても私にはわからなかった。
それで、この映画の原作、大藪春彦の小説『野獣死すべし』を読むことにした。
ワシントン・アーヴィングが「アメリカ文学の父」ならば、大藪春彦は「日本ハードボイルド小説の父」である。日本のハードボイルの歴史は大藪春彦なくしては語れない。大藪春彦の没後に創設された大藪春彦賞も、優れたハードボイルド小説に与えられる賞である。
大藪春彦の生年は1935年。同じ歳の作家に大江健三郎がいる。
作家デビューは早稲田大学在学中の1958年。大江健三郎が芥川賞を受賞した年である。大江は東大新聞の懸賞小説から世に出たが、大藪の出発点は早稲田大学の同人誌。同人誌に寄稿した小説が江戸川乱歩の目に留まり、乱歩が編集長を務める文芸誌『宝石』に掲載されたのだが、そのデビュー作が『野獣死すべし』である。
ちなみに、イギリスの推理作家ニコラス・ブレイクが1938年に発表した『THE BEAST MUST DIE』も『野獣死すべし』という邦題で出版されている。そして、この邦題をつけたのも江戸川乱歩である。乱歩は『野獣死すべし』の誕生に二回、立ち会っているのだ。
さて、デビューの翌年、1959年、『野獣死すべし』は仲代達矢主演、須川栄三監督で映画化され、
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