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半藤一利さんは「心の柱」だった――担当編集者がみた「歴史探偵」の素顔

「半藤さんの仕事で歴史を知り、未来を考える若い人が増えました」と報告したい

山本明子 編集者

 電話ぎらいだからFAXで――と聞き、緊張しながら文面をこしらえて『漱石と落語』(水川隆夫著・平凡社ライブラリー)の解説文をお願いしたのが、半藤一利さんとのご縁の始まりだった。2000年初めだったと思う。何度か催促FAXを送ったころに編集部に電話がかかってきて、「もういいから、電話くれてもよぉ」とうんざり気味に、あの胴間声(失礼)で、執筆を引き受けてくださった。

 本が無事に刊行された後、「一度お目にかかりたいのですが」とお願いした。某会合の後にホテルのロビーにうかがい、初のおめもじにこぎつけた。お茶をご一緒しながら、漱石ファンの編集者が何かを企んでいると下心を嗅ぎつけられたのか、「お前さんの考えていることぐらい、お見通しなんだよ」、ふふん、とベテラン編集者の風格をにじませて言われた。ガードが固いなあ。いや、もし鼻であしらわれたのだとしても、若かったゆえか気づかずにすんだ。

 鈍感が功を奏したか、単行本を少しずつ作らせてもらえるようになった。じつはお酒が強かったのが幸運だったのではないか。なにせ、酒を呑んでオダをあげるのが大好きな御仁なのである。一杯一杯また一杯。いくら呑んでも、知識と経験からくる山ほどの話題をカンガルーの袋にいっぱい詰め込んで大盤振る舞いするような、頼もしさであった。

千代田区麹町2010年半藤一利さん(1930-2021)=2010年、千代田区麹町で

若い生徒たちを圧倒した『昭和史』の「放課後」

文芸春秋取締役、作家・半藤 一利さん1988文藝春秋の取締役時代=1988年
 そうするうちに、過去の散文を集めてばかりいないで、半藤さんの王道をゆく本をぜひ作りたいと、『昭和史』の語り下ろしをお願いした。なにしろ、縄文時代に始まる学校の日本史の授業は、尻切れトンボで昭和時代をじっくり教えてもらえなかったのだ。そのまま卒業して社会に出る若者たちに、戦争ばかりで楽しくはなくとも大切な近現代史をわかりやすく語ってもらえないだろうかと。

 言うは簡単でも長大な仕事はさぞ荷が重くもあったろう、返事をしぶられて諦めかけていたころ、「あれ、やるからよぉ」と電話を頂いたときの嬉しさといったら。それ以上に、いざ満州の話から“授業”が始まり、点と点だった歴史が線でつながってゆく面白さを味わったあのゾクゾクとした興奮は、今でも鮮やかに思い出せる。

『昭和史 1926-1945』平凡社半藤一利『昭和史 1926-1945』(平凡社ライブラリー)
 こうして『昭和史』の授業は、音源版も出せるよう日本音声保存社の録音スタッフも加わって毎回1時間半前後、月1回のペースで続いた。もちろん「放課後」の飲み会は必須である。年代順に語られてゆく本筋でこぼれ落ちる裏話は、宴の席で存分に披露された。何冊分になっただろう、録音しておかなかったのが惜しまれる。かつて疎開先で雪深い道を通学し、東大ボート部の選手として鍛えた体からほとばしる半藤さんのオダあげは疲れを知らず、酒量とともに若い生徒たちを圧倒した。

 15回の授業をまとめた「戦前篇」(『昭和史 1926-1945』平凡社)が2004年に出た後、準備期間をおいて2年後に「戦後篇」(『昭和史 1945-1989』平凡社)も同じスタイルで刊行された。

 自称「歴史探偵」は、いつしか「歴史の語り部」とも呼ばれるようになった。そうなると、「この頃はしゃべってばかりいる、よぉし書いてやる」と、文芸誌『こころ』に『B面昭和史』『世界史のなかの昭和史』を連載した。毎回、締め切りのかなり前に、

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