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つかこうへいの短編小説をドラマに

『つかこうへいのかけおち'83』②

長谷川康夫 演出家・脚本家

 映像化されたつかこうへい作品の中で、最も「つからしい」といわれるNHK銀河テレビ小説『つかこうへいのかけおち'83』をめぐる2回目。そもそもこの企画の発端は……。1回目はこちら

朝ドラで出会ったディレクターの誘い

 『かけおち'83』の第1回放送は、1983年7月25日、夜9時40分からだったが、話はその半年ほど前にさかのぼる。

 NHKのディレクター、松岡孝治からの突然の電話がすべての始まりだった。彼の記憶では、まだかなり寒い季節だったというから、たぶん2月頃だろう。つかとの原稿仕事がちょうど一段落していた時期だったと思う。

 松岡は「至急会いたい」とだけ告げ、理由を訊くこともなく、僕たちは渋谷で酒を飲むことになった。

 松岡との出会いは、1981年4月放送開始の、朝の連続テレビ小説『まんさくの花』というドラマだった。僕はレギュラーとして出演し、半年間、撮影を共にしたのだ。

拡大ドラマのタイトルになったマンサク。早春に黄色い花を咲かせる
 僕が演じたのは、主人公の少女を取り巻く若者たちの一人で、小さな役だったが、それなりに出番は多かった。ただ漫才師志望という設定のため、その相方役と常に一緒に登場し、それがなんと高野嗣郎なのだ。つか劇団の二人をそんな形で使うというのが、製作側の狙いだったろう。

 災難だったのは、スタッフや出演者

拡大NHK連続テレビ小説『まんさくの花』は秋田県横手市で育った芸大志望の高校生が様々な体験をしながら成長する2年間を描いた。放送された1981年9月には主演した中村明美さんらによって国鉄(当時)横手駅前の広場にマンサクの木が記念植樹された
も皆、僕らが同じ劇団のコンビだと知っていて、どこに行っても必ず二人一組として扱われることだった。

 以前の回でも書いたように、俳優としても社会人としても色々と問題の多い高野を、多くの場面でフォローせねばならず、あれこれ神経を遣う毎日で、ある意味、気の重い仕事でもあった。

 ディレクターはメインとサブの2人の他、 ADも務める若手連中が数人いて、彼らも何週かに1度、演出を任されるというシステムだった。そしてその中の一人が松岡だった。年齢は僕より6歳上、つかと同世代である。

 今はどうかわからないが、当時のNHKの朝ドラでの、スタッフや出演者たちの関係は驚くほど親密だった。6話分90分を週ごとに撮り切らねばならず、スタジオという閉鎖された空間に長時間一緒に居るのだから、そうなるのは当然だったかもしれない。

 毎週の収録が終わると、様々な形で飲み会のようなものが開かれ、僕のような下っ端にも必ず声がかかった。僕などそれが楽しみで、NHKに通っているようなものだった。そんな席では、高野とは出来る限り離れるよう、努力した。

 半年以上の付き合いで若手ディレクター陣との仲も深まり、中でも松岡とは撮影終了後も、彼が住む、若林にあったNHKの局員アパートに何度か遊びに行き、食事をたかったりもした。

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筆者

長谷川康夫

長谷川康夫(はせがわ・やすお) 演出家・脚本家

1953年生まれ。早稲田大学在学中、劇団「暫」でつかこうへいと出会い、『いつも心に太陽を』『広島に原爆を落とす日』などのつか作品に出演する。「劇団つかこうへい事務所」解散後は、劇作家、演出家として活動。92年以降は仕事の中心を映画に移し、『亡国のイージス』(2005年)で日本アカデミー賞優秀脚本賞。近作に『起終点駅 ターミナル』(15年、脚本)、『あの頃、君を追いかけた』(18年、監督)、『空母いぶき』(19年、脚本)などがある。つかの評伝『つかこうへい正伝1968-1982』(15年、新潮社)で講談社ノンフィクション賞、新田次郎文学賞、AICT演劇評論賞を受賞した。20年6月に文庫化。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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