『つかこうへいのかけおち'83』②
2021年02月07日
映像化されたつかこうへい作品の中で、最も「つからしい」といわれるNHK銀河テレビ小説『つかこうへいのかけおち'83』をめぐる2回目。そもそもこの企画の発端は……。1回目はこちら。
『かけおち'83』の第1回放送は、1983年7月25日、夜9時40分からだったが、話はその半年ほど前にさかのぼる。
NHKのディレクター、松岡孝治からの突然の電話がすべての始まりだった。彼の記憶では、まだかなり寒い季節だったというから、たぶん2月頃だろう。つかとの原稿仕事がちょうど一段落していた時期だったと思う。
松岡は「至急会いたい」とだけ告げ、理由を訊くこともなく、僕たちは渋谷で酒を飲むことになった。
松岡との出会いは、1981年4月放送開始の、朝の連続テレビ小説『まんさくの花』というドラマだった。僕はレギュラーとして出演し、半年間、撮影を共にしたのだ。
災難だったのは、スタッフや出演者
以前の回でも書いたように、俳優としても社会人としても色々と問題の多い高野を、多くの場面でフォローせねばならず、あれこれ神経を遣う毎日で、ある意味、気の重い仕事でもあった。
ディレクターはメインとサブの2人の他、 ADも務める若手連中が数人いて、彼らも何週かに1度、演出を任されるというシステムだった。そしてその中の一人が松岡だった。年齢は僕より6歳上、つかと同世代である。
今はどうかわからないが、当時のNHKの朝ドラでの、スタッフや出演者たちの関係は驚くほど親密だった。6話分90分を週ごとに撮り切らねばならず、スタジオという閉鎖された空間に長時間一緒に居るのだから、そうなるのは当然だったかもしれない。
毎週の収録が終わると、様々な形で飲み会のようなものが開かれ、僕のような下っ端にも必ず声がかかった。僕などそれが楽しみで、NHKに通っているようなものだった。そんな席では、高野とは出来る限り離れるよう、努力した。
半年以上の付き合いで若手ディレクター陣との仲も深まり、中でも松岡とは撮影終了後も、彼が住む、若林にあったNHKの局員アパートに何度か遊びに行き、食事をたかったりもした。
そんな松岡と会うのは久し振りだった。
そしてそこで聞いた松岡からの依頼が、僕はすぐには理解ができなかった。
銀河テレビ小説の枠で、夏休み特集として1週間5話だけのドラマを作ることになり、そのディレクターに自分が手を挙げたので、何か考えてくれないかというのだ。
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