2021年02月15日
2月3日に森喜朗氏が女性蔑視ともとれる失言を報道陣にオンライン公開されていた会議の場で発してから、わずか1週間ほどで「辞任」というニュースが流れてきた。また一つの問題が「勃発」→「バッシングの嵐」→「辞任で終わり」という流れを経た。これで終わっていいのかという発言も元オリンピック選手の有森裕子さんがすでに公表している(「#五輪をどうする 有森裕子さん警告 森氏辞意『会長交代だけでは同じこと起きる』」毎日新聞)。
五輪の在り方、組織委員会の運営などについてはおそらくこれから議論されていくことであろうから、私はここまでのこの一連のプロセス(過程)をコミュニケーションと行動の専門家としての視点から考察してみたい。
森氏の発言は確かに問題であった。どこに問題があるか、そしてどうするべきかもたくさんの方がすでに論じている。しかし、私はこの2月3日からわずか1週間余りの間の海外までをも巻き込んだ世論の雰囲気にある種の「怖さ」を感じている。
それは、今「森叩きをしていれば安心、少しでも擁護すれば叩かれる」、このような一つの考え方(森叩き)に染まってしまっている、その空気感である。この空気というのが、日本が様々に指摘されている「多様性のなさ」の一例になってはいないだろうか。
これまでも、このようなメディアを巻き込んだ袋叩きとも取れるような目に遭って、自ら命を断った一般人は少なくない。ぱっと思い出す例として、2015年7月に鹿よけの電気柵に接触して2名が死亡した事故がある。
このときの報道も凄かった。あのとき「こんな報道のされ方をして、一般の人は耐えられるのだろうか……」と思って見ていたが、その嫌な予感が当たる小さな報道が3週間後ぐらいにあった。
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