2021年02月16日
東京・京王線の明大前駅で終電を逃したことから偶然に出会い、意気投合した大学生の男女がデートを重ね、思いを伝えあい、いっしょに暮らし始める。が、時が経つにつれ、二人の生活のリズムは噛みあわなくなり、互いへの恋愛感情も失(う)せていき、やがて二人は結婚するか別れるかという選択を迫られる――。
土井裕泰(どい・のぶひろ)監督、坂元裕二脚本の『花束みたいな恋をした』は、そんな「普通」の男女の恋愛模様と同棲生活の行方を、ユーモアを交えて哀切かつ冷徹に描き切っているが、何よりもまず、恋愛映画を撮ることが様々な理由で困難になったこの時代に、オーソドックスな傑作ラブストーリーが誕生したことを寿(ことほ)ぎたい。
時代設定は2015~2020年という、コロナ禍直前の時期にまでおよぶが、主人公の麦(むぎ)と絹(きぬ)を、菅田将暉、有村架純という当代の人気俳優が、気負うことなく、まさに「普通」のたたずまいで演じる(菅田も有村も、微妙な心の動きをかすかな表情の変化で表す演技が見事)。
演出の点では、スパスパと時間を省略しテンポよくドラマを進めるかと思えば、ヤマ場ではカメラの長回しで二人を凝視する土井監督の緩急自在の語り口が、こちらの“映画脳”を刺激しつづける(とりわけ序盤の、別々の場所にいる二人を短く交互に示すクロスカッティング/並行モンタージュが冴える)。
加えて、テレビドラマの名手・坂元裕二の脚本に一見過剰なほどに書きこまれた言葉(セリフとモノローグ/独白)も、くどくどしい心理説明にはならない。いやそれどころか、それらのセリフやモノローグは、仏ヌーヴェル・ヴァーグの映画作家たち、たとえばエリック・ロメール作品の登場人物の饒舌なセリフや、あるいはフランソワ・トリュフォー作品のナレーションの多用のように、画面そのもののリアルな肌触りをけっして損なうことがない(撮影は鎌苅洋一<かまかり・よういち>)。これはむろん、菅田と有村が、テレビドラマふうの芝居がかった演技を一切しないからでもある(撮影にあたって鎌苅は、二人の役者の心理にはあまり密着しない、<距離>を意識した撮り方を心がけたと語っている<パンフレット>)。
麦と絹は、互いの趣味が“嘘みたいに”一致していた。それが二人の距離を急速に縮めていく。出会いのシーン同様、映画――とりわけラブコメというジャンル――ならではの<偶然>をめぐるご都合主義。といってしまえばそれまでだが、土井演出の巧みなスキルが、それを嘘臭く思わせない。
また、脚本家・坂元裕二の徹底したリサーチによる、二人の共通の趣味/話題となる小説、映画、演劇、音楽、マンガ、ゲーム、アートの数々が、物語に本当らしさを“入力”する。つまり、それらの実在する個別具体的なものへの言及は、現実の指標(インデックス/参照項)となるゆえ、フィクションのリアリティを強めるわけだ。
その点で本作は、現代/同時代の若者の趣味嗜好やライフスタイルを反映するトレンディー・ドラマではあるが、二人の好むカルチャー・アイテムは村上春樹や又吉直樹や乃木坂46やアナ雪などのメインストリームではなく、かといって、沼正三、アラン・ロブ=グリエ、フィル・スペクター、エドガー・G・ウルマーといったマニアックなものでもなく、今村夏子、柴崎友香、いしいしんじなどの、いわばマイナー・メジャー系だ(ただし“嘘みたいな”趣味の一致といっても、時に二人は相手に合わせようとして、小さな(文字どおりの)嘘をいくつか交ぜ、関心のないものにも関心のあるふりをする。身につまされるような、芸の細かいディテールだ)。
ちなみに2017年に二人が渋谷のミニシアター(ユーロスペース)で観る映画、フィンランドのアキ・カウリスマキ監督『希望のかなた』に絹は心動かされるが、麦はピンとこない(二人の話題に『カンブリア宮殿』の村上龍、『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』(エドワード・ヤン監督、台湾、1991年、大傑作!)が出てきたときは一驚した)。
現代/同時代の指標といえば、ファミレスでテーブルを挟んで向かい合っている麦と絹が、スマホに映った互いの画像を介して告白しあう(!)場面や、麦がGoogleストリートビューに
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