[中]「母を追い返した形になったことが、その後の私の励みになった」
2021年02月17日
読売巨人軍での挫折。そして、負傷。家計を支えるためリヤカーを引いていた純朴な少年、馬場正平は、長じてプロレス入りの覚悟を決める。巨躯ゆえの偏見にも悩まされた彼が、おのれの天分に出会った場所。それは四角いリングの中、そして世界の中心、米・ニューヨークだった――。
母・ミツがおっとり刀で上京してきた。姉のヨシも一緒だった。
2対1の緊急家族会議。何を言われるのか。馬場正平は大方察しがついていた。
援軍のいない息子に向かって、母が口を開いた。
「三条に戻って、家を手伝ってほしい」
予想どおりの説得だった。時は1960年の早春。馬場は人生の岐路に立っていた。
この前年、5年間在籍したプロ野球・読売巨人軍から戦力外通告を受けた馬場。年が明け、大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)の春季キャンプに参加、入団テストに臨むも宿舎の風呂場で転倒し左ヒジを負傷。直前に得た「内定」はご破算となり、馬場は球界との縁を断ち切られた。
高校を2年で中退し、16歳で飛び込んだ夢の世界。しかし、22歳の早春に待っていたのは家族会議。
馬場の父・一雄は鍛冶職人だった。三条は鍛冶で栄えた町だった。だが、一雄が病弱だったことから、ミツは露店販売を主とする青果商、梅田屋を営むことで家計を支えた。そして、この時点ではヨシ夫妻が後を継いでいた。
馬場もかつては14歳上のヨシ、さらには4歳上の姉であるアイ子とともに、母を助けた。身長が急激に伸び始めた小学5年の頃から、朝4時、5時にたたき起こされては野菜や果物をいっぱいに積んだリヤカーを引いた。
行き先は朝市。当時、三条だけではなく隣町の燕、見附や加茂、さらに20キロ以上離れた長岡では日を替えて市が立った。つまりは毎日のように梅田屋はそれぞれの市で出張販売をした。
馬場には19歳上の兄・正一がいた。しかし、兄のことはほとんど覚えていない。馬場が5歳の誕生日を迎えてまもない1943年2月、正一は多くの日本軍兵士が帰らぬ人となったガダルカナル島の戦いに出征し、命を落としたのである。
長男を亡くしたミツの悲しみは、幼い馬場にも理解できた。だからボヤキもグッと飲み込んで、懸命に親孝行をしてきた。でも、この岐路にあたって母の懇願を受け入れるわけにはいかなかった。
「もう少し、オレにわがままをさせてくれ」
3人による家族会議は、1人が2人を押し切って終わった。
東京で一旗あげるまでは故郷に帰れない。周囲からはプロボクサーや映画俳優、ホテルマンやキャバレーのドアボーイなど、さまざまな就職先を提示されたが、それらを断った馬場は本人いわく「何かに引き寄せられるように」力道山率いる日本プロレスの門をたたいたのだった。
すると、息子のプロレス入りを知ったミツが、再び上京してきた。
前回とは、顔が違った。
「プロレスだけはやめてくれ。どうしてもやると言うなら勘当する!」
本気の縁切り宣言。手伝いを拒む息子への「勘当だ」とは声質が違った。今回は押し切られない。声に重石(おもし)が載っていた。
力道山が木村政彦とのコンビでシャープ兄弟を迎え撃ったのが1954年2月のこと。そこからプロレス人気に火がついたが、いざ自分の息子が人前で肌をさらし殴り合うなんて冗談じゃない。プロレスとは野蛮。プロレスラーとは粗暴な人種。従順で純朴な正平にできるはずがないし、親としてやらせるわけにはいかない。ミツの怒りは至極当然と言えた。
それでも馬場は、今度も譲らなかった。その時の心情を著書『王道十六文 完全版』(ジャイアント・サービス刊)では次のように綴っている。
〈私はもう後には退けない。一晩かかって母を説得したが、母は最後まで、「それならやりなさい」とは言わなかった。母は、泣き落としにもおどしにも決心を変えない私に呆れ、あきらめて、翌日三条に帰っていった。その小さな後ろ姿に、「申し訳ない」とは思ったが、母を追い返した形になったことが、その後の私の励みになったことも事実だった〉
人生最大の親不孝を経て、馬場は
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