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ジャイアント馬場が「人生最大の親不孝」、プロレスを選んだ覚悟

[中]「母を追い返した形になったことが、その後の私の励みになった」

市瀬英俊 スポーツライター

読売巨人軍での挫折。そして、負傷。家計を支えるためリヤカーを引いていた純朴な少年、馬場正平は、長じてプロレス入りの覚悟を決める。巨躯ゆえの偏見にも悩まされた彼が、おのれの天分に出会った場所。それは四角いリングの中、そして世界の中心、米・ニューヨークだった――。

 母・ミツがおっとり刀で上京してきた。姉のヨシも一緒だった。

 2対1の緊急家族会議。何を言われるのか。馬場正平は大方察しがついていた。

 援軍のいない息子に向かって、母が口を開いた。

 「三条に戻って、家を手伝ってほしい」

 予想どおりの説得だった。時は1960年の早春。馬場は人生の岐路に立っていた。

 この前年、5年間在籍したプロ野球・読売巨人軍から戦力外通告を受けた馬場。年が明け、大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)の春季キャンプに参加、入団テストに臨むも宿舎の風呂場で転倒し左ヒジを負傷。直前に得た「内定」はご破算となり、馬場は球界との縁を断ち切られた。

 高校を2年で中退し、16歳で飛び込んだ夢の世界。しかし、22歳の早春に待っていたのは家族会議。

 馬場の父・一雄は鍛冶職人だった。三条は鍛冶で栄えた町だった。だが、一雄が病弱だったことから、ミツは露店販売を主とする青果商、梅田屋を営むことで家計を支えた。そして、この時点ではヨシ夫妻が後を継いでいた。

青果商「梅田屋」(写真:馬場トシ子提供)拡大青果商「梅田屋」=馬場トシ子さん提供

 馬場もかつては14歳上のヨシ、さらには4歳上の姉であるアイ子とともに、母を助けた。身長が急激に伸び始めた小学5年の頃から、朝4時、5時にたたき起こされては野菜や果物をいっぱいに積んだリヤカーを引いた。

 行き先は朝市。当時、三条だけではなく隣町の燕、見附や加茂、さらに20キロ以上離れた長岡では日を替えて市が立った。つまりは毎日のように梅田屋はそれぞれの市で出張販売をした。

馬場正平(写真:株式会社H.J.T.Production提供)拡大高校時代の馬場正平=株式会社H.J.T.Production提供
 馬場はそれを手伝った。遠方へはリヤカーをつないだ自転車をこいだ。冬になって雪が降ればソリを走らせた。市に着いて、荷物を下ろし、長身を生かして天幕を張るまでが馬場少年の仕事。すべて終わればトンボ返りで帰宅し、今度は学校へと向かう。サボりたいと何度も思ったが、文句を言えば母に「勘当だ!」とどやされるのがオチ。市との往復は巨人軍に入団するまで続いた。

 馬場には19歳上の兄・正一がいた。しかし、兄のことはほとんど覚えていない。馬場が5歳の誕生日を迎えてまもない1943年2月、正一は多くの日本軍兵士が帰らぬ人となったガダルカナル島の戦いに出征し、命を落としたのである。

 長男を亡くしたミツの悲しみは、幼い馬場にも理解できた。だからボヤキもグッと飲み込んで、懸命に親孝行をしてきた。でも、この岐路にあたって母の懇願を受け入れるわけにはいかなかった。

 「もう少し、オレにわがままをさせてくれ」

 3人による家族会議は、1人が2人を押し切って終わった。

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筆者

市瀬英俊

市瀬英俊(いちのせ・ひでとし) スポーツライター

1963年、東京都生まれ。千葉大学法経学部卒。「週刊プロレス」全日本プロレス担当記者等を経て、現在スポーツライター。著書に『夜の虹を架ける――四天王プロレス「リングに捧げた過剰な純真」』(双葉社)、『ワールドプロレスリングの時代――金曜夜8時のワンダーランド』(朝日新聞出版)など。