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ジャイアント馬場が「人生最大の親不孝」、プロレスを選んだ覚悟

[中]「母を追い返した形になったことが、その後の私の励みになった」

市瀬英俊 スポーツライター

「プロレスだけはやめてくれ」

 東京で一旗あげるまでは故郷に帰れない。周囲からはプロボクサーや映画俳優、ホテルマンやキャバレーのドアボーイなど、さまざまな就職先を提示されたが、それらを断った馬場は本人いわく「何かに引き寄せられるように」力道山率いる日本プロレスの門をたたいたのだった。

 すると、息子のプロレス入りを知ったミツが、再び上京してきた。

 前回とは、顔が違った。

 「プロレスだけはやめてくれ。どうしてもやると言うなら勘当する!」

 本気の縁切り宣言。手伝いを拒む息子への「勘当だ」とは声質が違った。今回は押し切られない。声に重石(おもし)が載っていた。

 力道山が木村政彦とのコンビでシャープ兄弟を迎え撃ったのが1954年2月のこと。そこからプロレス人気に火がついたが、いざ自分の息子が人前で肌をさらし殴り合うなんて冗談じゃない。プロレスとは野蛮。プロレスラーとは粗暴な人種。従順で純朴な正平にできるはずがないし、親としてやらせるわけにはいかない。ミツの怒りは至極当然と言えた。

 それでも馬場は、今度も譲らなかった。その時の心情を著書『王道十六文 完全版』(ジャイアント・サービス刊)では次のように綴っている。

 〈私はもう後には退けない。一晩かかって母を説得したが、母は最後まで、「それならやりなさい」とは言わなかった。母は、泣き落としにもおどしにも決心を変えない私に呆れ、あきらめて、翌日三条に帰っていった。その小さな後ろ姿に、「申し訳ない」とは思ったが、母を追い返した形になったことが、その後の私の励みになったことも事実だった〉

 人生最大の親不孝を経て、馬場は

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筆者

市瀬英俊

市瀬英俊(いちのせ・ひでとし) スポーツライター

1963年、東京都生まれ。千葉大学法経学部卒。「週刊プロレス」全日本プロレス担当記者等を経て、現在スポーツライター。著書に『夜の虹を架ける――四天王プロレス「リングに捧げた過剰な純真」』(双葉社)、『ワールドプロレスリングの時代――金曜夜8時のワンダーランド』(朝日新聞出版)など。

※プロフィールは、論座に執筆した当時のものです