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日本の「ラ・マルセイエーズ」になりそこねた唄/上

【34】「民族独立行動隊の歌」

前田和男 翻訳家・ノンフィクション作家

オールドボルシェビキのアナクロ〝懐メロ〟?

 今回取り上げるのは、日本の「ラ・マルセイエーズ」(フランス国歌)になりそこねた「民族独立行動隊の歌」である。以下に、いまに伝えられている歌詞を掲げる(なお「元唄」とは差異があるが、それについては後に検証する)。

♪民族の自由を守れ
決起せよ祖国の労働者
栄(は)えある革命の伝統を守れ
血潮には正義の血潮もてたたきだせ
民族の敵 国を売る犬どもを
進め進め団結かたく
民族独立行動隊 前へ前へ進め

♪民族の独立勝ちとれ
ふるさと南部工業地帯
再び焼土の原と化すな
暴力(ちから)には団結の実力(ちから)もて叩きだせ
民族の敵 国を売る犬どもを
進め進め 団結かたく
民族独立行動隊 前へ前へ進め
(「青年歌集」音楽センター)

 70年以上も大昔の唄であり、大半の読者には、日本語で書かれてはいてもおそらく〝意味不明〟だろう。ちなみに歌詞にこめられた大意を記すと、「アメリカの占領下にある日本で、その手先の〝国を売る犬ども〟を叩きだして(日本)民族の自由と独立を勝ち取ろう」である。

 「なんだ、右翼民族派の唄か」と勘違いされそうだが、どっこい敗戦直後の最左翼、日本共産党のプロパガンダソングである。

 オールドボルシェビキのアナクロ(時代錯誤)な〝懐メロ〟だと、そう当初は筆者自身も思い、本連載の「除外リスト」にしまい込んでいたのだが、今回そこから取り出すことにしたのは、調べ直してみて、この唄には、戦後の反体制運動を解き明かす「ミッシングリング」が隠されている――すなわちこの唄はアナクロどころか、時代にシンクロしていることに気づかされたからである。

 なお、「民族独立行動隊の歌」は、〝左翼運動圏〟では「民独」と俗称されてきたことから、本稿においても、以下「民独」と記す。

 改めて資料にあたり、また関係者に証言を求めてみたところ、「民独」には実に謎が多い。しかもそれらは複層的にからまっている。それは裏を返せば、「民独」には戦後日本史のミッシングリングが隠されている証左でもあろう。

 それでは、その謎を順次、解きほぐしながら、検証を進めていくとしよう。

歌:「民族独立行動隊の歌」
作詞:きしあきら(山岸一章)/作曲:岡田和夫
時:1950(昭和25)年
場所:東京都大田区

〝赤狩り〟に抗議した「煙突男」が産みの親

うたごえ運動の中で使われた「民族独立行動隊の歌」楽譜。「一番の歌詞で『決起せよ祖国の労働者』二番の『ふるさと南部工業地帯』とある所は自由に自分たちの地名や仕事に変えて歌ってください」とある。

 まずは「民独」の出生から記す。

 それは戦後5年めの昭和25(1950)年前後から突風となって吹き荒れた「レッドパージ(〝赤狩り〟とも呼ばれた)」の最中のことであった。日本を占領支配したGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、当初は日本の民主化の一環として労働組合をふくむ左翼運動を容認・推奨していたが、やがてそれらが急進化、折しも朝鮮戦争の勃発によって東西冷戦が激化したのを契機として、共産党の非合法化に乗り出し、共産党員であることを理由に職を奪われた人々は官民ふくめて2万人とも3万人ともいわれる。アメリカでも同時期に「マッカーシー旋風」が吹き荒れ多くの左翼及びリベラル系の人々が「共産主義のシンパ」とされて職場を追放された。

 そんな〝赤狩り〟が太平洋をはさんで日米両国で始まった昭和25(1950)年の11月11日付の朝日新聞に、

 「煙突男、雨中にがんばる」

 の小さな1段見出しを掲げた次の15行ほどのベタ記事が掲載された。

「煙突男」を報じる1950年11月11日付朝日新聞
 「十日朝午前八時ごろから、品川区大井権現町三八七三国電大井駅前、東京鉄道管理局大井工場三十二㍍の煙突に、同工場用品庫組合分会長山岸一章(二七)が登り、煙突男を決めこんだ。『越年資金二ケ月分を出せ』と叫んでいるところへ午後四時ごろ組合員が煙突に登って勧告をしたが應ぜず食料、雨具、防寒具をつりあげムシロを敷き、折からの雨にぬれながらがんばりつゞけた。/工場、組合側は品川消防署にハシゴ自動車をたのみ、照明燈をつけて煙突男を警戒した」

 煙突に登るという「奇矯な行動」からどこか軽い戯画的扱いをうけたのかもしれないが、これこそが日本の「ラ・マルセイエーズ」になったかもしれない唄の〝産院〟だったのである。その瞬間を「産みの親」である山岸一章はこう記している。(以下、山岸の「民独」にかかわる引用記述は、特記しないかぎり、いずれも山岸一章「民族独立行動隊の歌 四十年の歳月を経て」(『文化評論』1990,4)による)

「(煙突籠城から)三日目の十二日は日曜日で、工場は休日でした。煙突の煙りはわずかで、夜明け前から快晴でした」「一年数ヵ月ぶりにのんびりした気分になって『ひま』を感じた私は、午後になってから日本の革命歌を作詞してみよう、と思い立ちました。敗戦後の私たちがうたっていたのは外国の革命歌ばかりで、日本の革命歌が欲しいと痛感していました」「今だ! 作詞に良い時間と状態に恵まれたのだ、と思いました。そして私は、三年余の闘いの連続で胸中にうっ積していた要求と怒り、青年たちへの訴えを一気に吐き出すように、国鉄の公社化で不用になった伝票束の裏側の紙片に『民族の自由を守れ』と書き始めました」

英雄視を嫌って作者であることを秘匿

 かくしてこの世に生を享けた「民独」だが、それがやがて左翼運動圏の愛唱歌となり、さらには日本の「ラ・マルセイエーズ」に擬せられるまでに育つことを、「産みの親」である山岸一章自身は、まったく予期してはいなかったようだ。

 実は山岸は筆者の元妻方の親戚である。山岸は小学校卒の叩き上げの労働者で、国鉄大井工場の用品庫係として労働運動に関わるなか、(筆者が誕生した)昭和22(1947)年に共産党に入党、前述の「煙突男」となったことが仇となりレッドパージを食らい、職場を追われた。おそらく天性の文才があったからでもあろう、後に「アカハタ(現「赤旗」)の記者をへて共産党の影響下にある「民主文学」を代表する作家となり、戦前の呉海軍の反軍活動を描いた『聳ゆるマスト』で多喜二・百合子賞を受賞。「生涯共産党員」をまっとうして平成7(1995)年に亡くなっている。

 かたや筆者は、学生時代には山岸とは敵対関係にある極左冒険主義者にして左翼小児病患者の「トロツキスト」であったが、お互いそれを知りながら、著作を交換する「大人の関係」に

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