【35】「民族独立行動隊の歌」
2021年02月28日
「民族独立行動隊の歌(民独)」が背負わされた武装闘争への煽動役は5年ほどで〝お役御免〟となる。
1955(昭和30)年7月に開催された共産党の第6回全国協議会(六全協)で、それまでの「農村が都市を包囲する」中国革命をモデルにした武装闘争路線の放棄が宣言され、「議会闘争を通じて幅広い国民の支持を得られる党」へ向けて真逆へ舵が切られるのである。この背景には、2年前のスターリンの死去にともなう朝鮮戦争の停戦をうけ、「東西の雪解け」が進んだ国際情勢の大変化も、大きく関係していた。
この共産党の歴史的な路線転換により、山村工作隊も軍事組織も解体・消滅、地下に潜行していた学生たちが大学へと戻ってくる。そして「民独」も煽動の役を終えたのである。前掲の「東大音感の軌跡」も、こう記す。
「民族の自由を守れ、けっきせよ祖国の労働者と励ます力強い旋律が好まれて集会や行進でよく歌われた「民族独立行動隊」は、にわかに人の口から薄れ(以下略)」
しかし、「民独」が集会やデモでうたわれなくなったからといって、キャンパスに平穏が戻ったわけではなかった。かえって沈鬱な事態がもたらされた。共産党と関係の深かった学生たちを襲ったいわゆる「六全協ショック」である。前掲書は、
「六全協の夏の終わりから秋にかけて次々と共産党を離れてゆく人たちの中には、音感からも、消えて行くように離れる人が多かった」
と記してから、合唱サークルのメンバーたちの墓碑銘を刻み誌(しる)す。
「(農学部に進学した女子会員は)卒業後は農協出版部で働くことが決まっていた4年生の春の日、異性関係の悩みをきっかけにして青酸カリを呑み、命を絶った。名簿だけの会員であったが党員のお茶の水女子大生が遺書も残さず鉄道自殺を遂げたし、会報に「赤旗」論説のような「模範的」文章を書いていた真面目一筋の経済学部生は、このあと俄かに私生活を荒らして金銭や異性関係が放埒になり、卒業後も就職をしないまま酒場でアコーディオンを弾くアルバイトを続けていたが、彼も自ら生命を絶った」
折しも東京大学新聞1956年10月8日号の1面コラム「風声波声」に掲載された断罪と鎮魂をないまぜた一節が、本郷と駒場のキャンパスに衝撃を与えた。
「日本共産党よ/死者の数を調査せよ/そして共同墓地に手あつく葬れ/政治のことは、しばらくオアズケでもよい/死者の数を調査せよ/共同墓地に手あつく葬れ/中央委員よ/地区常任よ/自らクワをもって土を起こせ/穴を掘れ、墓標を立てよ」「彼らがオロカであることを/私たちのオロカさのしるしとしていいのであろうか」
これは、その煽動役をつとめた「民独」へ向けた断罪でもあった。
歌:「民族独立行動隊の歌」
作詞:きしあきら(山岸一章)/作曲:岡田和夫
時:1950(昭和25)年
場所:東京都大田区
かくして「民独」は命脈を絶たれたも同然のはずであった。
共産党自身も歴史的な路線転換で「瀕死の傷」を負った。覚悟の上とはいえ、非合法活動に入るまでは衆参あわせて最大39人もいた国会議員は国民の支持を失ってゼロになった。多くの党員が去っていくなかで、「党の再建」が最優先課題にすえられ、そのため5年後に控える戦後最大の政治テーマである「日米安保条約改定問題」へ取り組む余裕はなかった。
その運動を担ったのは、皮肉なことに、「六全協ショック」で党を去っていった学生たちが結成した「共産主義者同盟」(ブント)を中心にした新左翼グループと彼らが主導した全学連であり、共産党が「日和見主義」と見下してきた社会党であり、彼らの影響下にある「ニワトリからアヒル」となった総評傘下の労働者たちだった。
1年以上にわたる安保条約反対の抗議行動には、全国6000カ所の集会やデモにのべ560万人もが参加、国会での承認をめぐる最終局面の1960年6月19日には33万人ものデモの輪が国会を取り囲んだが、街頭でも集会でも共産党の影響力は無きに等しかった。彼らがまがりなりにも存在感を示すのは、安保闘争が敗北に終わった翌61年の第8回党大会以降のことである。
そんな中で、「民独」はどうなったのか。
かつてこの唄を売り出したプロデューサーの共産党にとっては、せっかく党に残った人々に忌まわしい「暴力闘争」の記憶を蘇らせる悪夢でしか
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