前田和男(まえだ・かずお) 翻訳家・ノンフィクション作家
1947年生まれ。東京大学農学部卒。翻訳家・ノンフィクション作家。著作に『選挙参謀』(太田出版)『民主党政権への伏流』(ポット出版)『男はなぜ化粧をしたがるのか』(集英社新書)『足元の革命』(新潮新書)、訳書にI・ベルイマン『ある結婚の風景』(ヘラルド出版)T・イーグルトン『悪とはなにか』(ビジネス社)など多数。路上観察学会事務局をつとめる。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
【35】「民族独立行動隊の歌」
「民族独立行動隊の歌(民独)」が背負わされた武装闘争への煽動役は5年ほどで〝お役御免〟となる。
1955(昭和30)年7月に開催された共産党の第6回全国協議会(六全協)で、それまでの「農村が都市を包囲する」中国革命をモデルにした武装闘争路線の放棄が宣言され、「議会闘争を通じて幅広い国民の支持を得られる党」へ向けて真逆へ舵が切られるのである。この背景には、2年前のスターリンの死去にともなう朝鮮戦争の停戦をうけ、「東西の雪解け」が進んだ国際情勢の大変化も、大きく関係していた。
この共産党の歴史的な路線転換により、山村工作隊も軍事組織も解体・消滅、地下に潜行していた学生たちが大学へと戻ってくる。そして「民独」も煽動の役を終えたのである。前掲の「東大音感の軌跡」も、こう記す。
「民族の自由を守れ、けっきせよ祖国の労働者と励ます力強い旋律が好まれて集会や行進でよく歌われた「民族独立行動隊」は、にわかに人の口から薄れ(以下略)」
しかし、「民独」が集会やデモでうたわれなくなったからといって、キャンパスに平穏が戻ったわけではなかった。かえって沈鬱な事態がもたらされた。共産党と関係の深かった学生たちを襲ったいわゆる「六全協ショック」である。前掲書は、
「六全協の夏の終わりから秋にかけて次々と共産党を離れてゆく人たちの中には、音感からも、消えて行くように離れる人が多かった」
と記してから、合唱サークルのメンバーたちの墓碑銘を刻み誌(しる)す。
「(農学部に進学した女子会員は)卒業後は農協出版部で働くことが決まっていた4年生の春の日、異性関係の悩みをきっかけにして青酸カリを呑み、命を絶った。名簿だけの会員であったが党員のお茶の水女子大生が遺書も残さず鉄道自殺を遂げたし、会報に「赤旗」論説のような「模範的」文章を書いていた真面目一筋の経済学部生は、このあと俄かに私生活を荒らして金銭や異性関係が放埒になり、卒業後も就職をしないまま酒場でアコーディオンを弾くアルバイトを続けていたが、彼も自ら生命を絶った」
折しも東京大学新聞1956年10月8日号の1面コラム「風声波声」に掲載された断罪と鎮魂をないまぜた一節が、本郷と駒場のキャンパスに衝撃を与えた。
「日本共産党よ/死者の数を調査せよ/そして共同墓地に手あつく葬れ/政治のことは、しばらくオアズケでもよい/死者の数を調査せよ/共同墓地に手あつく葬れ/中央委員よ/地区常任よ/自らクワをもって土を起こせ/穴を掘れ、墓標を立てよ」「彼らがオロカであることを/私たちのオロカさのしるしとしていいのであろうか」
これは、その煽動役をつとめた「民独」へ向けた断罪でもあった。
歌:「民族独立行動隊の歌」
作詞:きしあきら(山岸一章)/作曲:岡田和夫
時:1950(昭和25)年
場所:東京都大田区
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