2021年03月02日
第164回芥川賞受賞を受賞した『推し、燃ゆ』。その受賞会見で、「予定より早かった」と語った宇佐見りんは、のちのインタビューで「まだ書けていないところはわかっていて、歯がゆかったので……。『今なのか』という感覚がありました」(『文藝春秋』2021年3月号)と答えている。作家にとっての画期と、受賞という画期は違うのだなと、あたりまえのことを思ったが、しかし、やはり今かもしれないと考えた。
その「的確な筆遣い」は、前作にして第1作『かか』でも指摘されたところだが、宇佐見が愛してやまない中上健次を彷彿とさせる。触覚や視覚に注意深く訴えながら一文一文を大胆に切り返す手つきは本作でも冴えをみせていて、読者の目はそれを追うことから逃げられない。ひとつ引用してみる。
入ってしまえば気にならないのに、タイルの上を流れてくる水はどこかぬるついている気がする。垢や日焼け止めなどではなく、もっと抽象的な、肉、のようなものが水に溶け出している。水は見学者の足許にまで打ち寄せた。もうひとりの見学者は隣のクラスの子だった。彼女は、夏の制服の上に薄手の白い長袖パーカーを着て、プールの縁ぎりぎりまで行ってビート版を配っている。水を撥ね上げるたび素足がどぎつい白さを放つ。
いい。この後につづく文もいい。ほかにもいい文があって、どんどん並べていきたいが、ひとまず我慢しておく。
ところで、宇佐見は3番目に若い年齢で芥川賞を受賞したと報道されたが、そのもっとも若い受賞者である綿矢りさは、受賞第1作『夢を与える』(2007年)で、アイドルを主人公に描いている。スキャンダルの嵐に晒され落ちていくチャイドル(子役)である主人公・夕子の出生前(!)からたっぷりと、観られる側の地獄を差し出してみたのだった。では、観る側には観客として限りない愉楽だけが約束されているのだろうか?
「尊い」「しんどい」けれども、アイドルを推すことから離れられない観る側の地獄と救済(といってみたが、果たして救済なのか)を描いている『推し、燃ゆ』を冒頭から辿り直してみよう。
「推しが燃えた。」という出落ちのような一文ではじまる本作は、高校生のあかりが主人公だ。教室よりも長い時間を過ごす保健室で病院への受診を勧められ、「ふたつほど診断名がつい」ているあかりは、家族や学校、友人、アルバイト先のどのひとつともうまくやっていけない。
リアルには所在ないあかりが唯一認められるのは、「推し」である「まざま座」の上野真幸に関して発信しているブログやSNSといったデジタルの場だ。
あたしがここでは落ち着いたしっかり者というイメージで通っているように、もしかするとみんな実体は少しずつ違っているのかもしれない。それでも半分フィクションの自分でかかわる世界は優しかった。
優しい世界にいたいがためにあかりは「推し」を愛するわけではない。
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