丹野未雪(たんの・みゆき) 編集者、ライター
1975年、宮城県生まれ。ほとんど非正規雇用で出版業界を転々と渡り歩く。おもに文芸、音楽、社会の分野で、雑誌や書籍の編集、執筆、構成にたずさわる。著書に『あたらしい無職』(タバブックス)、編集した主な書籍に、小林カツ代著『小林カツ代の日常茶飯 食の思想』(河出書房新社)、高橋純子著『仕方ない帝国』(河出書房新社)など。趣味は音楽家のツアーについていくこと。
第164回芥川賞受賞を受賞した『推し、燃ゆ』。その受賞会見で、「予定より早かった」と語った宇佐見りんは、のちのインタビューで「まだ書けていないところはわかっていて、歯がゆかったので……。『今なのか』という感覚がありました」(『文藝春秋』2021年3月号)と答えている。作家にとっての画期と、受賞という画期は違うのだなと、あたりまえのことを思ったが、しかし、やはり今かもしれないと考えた。
芥川賞の選評で、9人の選考委員のひとり、島田雅彦は、「感情と分かちがたく結びついた論理がレディメイドの文章の型を踏み外してゆくそのスタイルの発展形を是非見てみたい」といった。松浦寿輝は、「共感とも感情移入ともまったく無縁な心の震えに、自分でも戸惑わざるをえなかった。(中略)宇佐見氏の的確な筆遣いによって、どこか人間性の普遍に届いているからだろう」といった。
その「的確な筆遣い」は、前作にして第1作『かか』でも指摘されたところだが、宇佐見が愛してやまない中上健次を彷彿とさせる。触覚や視覚に注意深く訴えながら一文一文を大胆に切り返す手つきは本作でも冴えをみせていて、読者の目はそれを追うことから逃げられない。ひとつ引用してみる。
入ってしまえば気にならないのに、タイルの上を流れてくる水はどこかぬるついている気がする。垢や日焼け止めなどではなく、もっと抽象的な、肉、のようなものが水に溶け出している。水は見学者の足許にまで打ち寄せた。もうひとりの見学者は隣のクラスの子だった。彼女は、夏の制服の上に薄手の白い長袖パーカーを着て、プールの縁ぎりぎりまで行ってビート版を配っている。水を撥ね上げるたび素足がどぎつい白さを放つ。
いい。この後につづく文もいい。ほかにもいい文があって、どんどん並べていきたいが、ひとまず我慢しておく。
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