「碍」の常用漢字化には賛成できない
2021年03月04日
本年2月26日、文化審議会 (*)国語分科会の国語課題小委員会は、「障害」の代わりに提案されている「障碍」の「碍」の字を、「直ちに〔常用漢字表に〕追加することはしない」という見解を示した(朝日新聞2021年2月27日付)。直前に、川内博史衆議院議員(立憲民主党)が予算委員会で同提案を行った後のことだけに(同2月20日付)、注目を集めるなかでの判断だった(*後述する理由で、ここはあえて「分かち書き」にした)。
「害」には私も違和感がある。実際に「障がい者」からそうした想いを聞いたこともある。害は「益」、「利」に相反する言葉で、「悪い結果や影響を及ぼす物事」(小学館『大辞泉』)の意である。
実際周囲から、「障がい」は悪い結果や影響をおよぼすと――多くの場合、同情からとはいえ――見なされる傾向が大きいだろう。だがそのことと、実際に結果・影響を、ひいては障がい自体を「悪い」と認識・意識することは、別の事柄である。
「障がい者」やその家族は、「障がい」の現実をそのまま受け入れて、それを特別なこと(ましてや特別な害悪)ではなく普通のことだと解して生きる、あるいは生きるようはげますというが、確かに「害」には、そのように前向きに生きる可能性を、せばめてしまう怖さがある。
2016年、筆者の地元の役所が「国際障害者年」(1981年)35年をふまえて(だったと記憶する)広報誌で特集記事をくんださい、どの記事でも「障害」が使われている事実を知り、担当課に、当事者の想いを尊重して「害」の字をさけてほしいと申し入れたことがある。だが同課は、「害の字にこだわらない障害者もいる」という理由で、私の申し入れを一蹴した。
障がい者のなかにも、そうした人は確かにいるだろう。だが、この文字にこめられた意味と、それを体現する周囲の差別意識に苦しめられてきた人たちの想いをくみ取ることこそ、「人権の主流化」を推進しつつある国際社会の流れに沿うのではないか。
性犯罪を告発する文脈で、One is too many(1件でも多すぎる)という表現が使われることがあるが、それはこの場合にもあてはまる。「害」という文字に強い違和感をもつ、あるいは障がいを害悪視するかのような差別意識を感じとる障がい者が一人でもいるとき、市民も役所もその想いに対して敏感であるべきだろう。
ところで、「障害」を「障碍」と書くことで、差別意識を払しょくしようという提案は、傾聴にあたいする。川内議員も述べたように、この文字を、ひいてはその含意を実質的に残すことの是非を問うことは、優生保護法の制定・放置といった「負の歴史」をかかえた国会としては、当然の責務だろう(同前2月20日付)。
だが、他にほとんど使われない文字を、あえて「常用漢字」化するという提案は、日本語の将来を考えた場合には、やはり支持できない。特に「碍」という文字は他にまず使われない(唯一の例外は「融通無碍(むげ)」か)。いかに「障がい者」に対する差別意識を取りのぞくという善意にもとづくとはいえ、
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