[下]「僕は何時も思って居ます。貴女と僕とは身分が違いすぎる」
2021年03月08日
トップレスラーとして活躍をするなか、力道山の娘との結婚の噂が流れた馬場。きっぱり否定したのは17歳と15歳で出会った「意中の人」へのメッセージだった――。元子は母親に馬場との結婚を反対されロサンゼルスへ渡る。遠距離恋愛のふたりは、膨大な量のエアメールで絆を深めていった。
「結婚の噂もあるが……」
「また、結婚の質問ですか。弱ったな、そういじめないでくださいよ」
取材陣の質問に対して、ジャイアント馬場は苦笑いを浮かべた。1964年7月23日、生まれ故郷の新潟県三条市で馬場がアジアタッグ王座の初防衛に成功した日、深夜の記者会見でのひとコマである。
当時26歳の馬場に持ち上がった結婚話。その発信源は一般週刊誌。「お相手」とされたのは百田千恵子。前年12月に不慮の死を遂げた力道山が生前、前妻との間に授かった女性だった。
仮にこの噂が現実のものとなれば、馬場は文字通り力道山の後継者としてお墨付きを得ることになる。
「千恵子さんがかわいそうですよ。そういった事実はありません。意中の人が見つかったらすぐにでも発表しますよ」
否定の言葉は、この時点ですでに存在していた「意中の人」へのメッセージでもあった。
その人の名は伊藤元子。のちの馬場夫人である。馬場と元子はひっそりと、結婚を前提に交際を重ねていた。
ふたりの出会いは1955年3月にまでさかのぼる。高校を2年で中退しプロ野球・読売巨人軍の一員となった馬場は、新人投手として初の春季キャンプに臨んでいた。
まずは宮崎県での1次キャンプ。続いて兵庫県明石市に移動し2次キャンプ。一方、同市内に暮らす当時15歳の元子は父に連れられ球場へと赴いた。すると、ひときわ背の高い選手が元子の目に留まった。
「お父さん、見て見て! あの人、なんだかまだ子どもみたいだけど、ひとりだけずば抜けて大きいね」
巨人軍入団時点で190センチを超える身長を誇っていた「あの人」。名前が馬場正平であることを元子は父から教えられた。
石油会社を経営する元子の父・伊藤悌(やすし)は巨人軍の後援者として、球団にも顔が利く立場にあった。キャンプ中には監督やコーチ、数人の選手を自宅に招待して激励会を開催する。それは恒例行事になっていた。
そして、この年の激励会には馬場も招くことになった。「わたし、あの大きな人に会いたい!」。父にリクエストしたのは元子だった。
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