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宇佐見りん『推し、燃ゆ』の主人公が垂直に運動するのをぜひ見たい

中嶋 廣 元トランスビュー代表

 まず文体。簡にして要を得ていて、しかも密度が異常に濃い。一度読みだすと、目が離せなくなる。

推(お)しが燃えた。ファンを殴ったらしい。まだ詳細は何ひとつわかっていない。何ひとつわかっていないにもかかわらず、それは一晩で急速に炎上した。

 これが第1段。センセーショナルな内容だが、文章はリズミカル、しかも端正で格高い。

 目を転じて、次に自分の状況を書く。

寝苦しい日だった。虫の知らせというのか、自然に目が覚め、時間を確認しようと携帯をひらくとSNSがやけに騒がしい。寝ぼけた目が〈真幸(まさき)くんファン殴ったって〉という文字をとらえ、一瞬、現実味を失った。

 寝ぼけまなこで携帯を探り、そのまま現実味を失うところまで、一気にもっていく。

 次に自分の不安な内面を描く。

腿の裏に寝汗をかいていた。ネットニュースを確認したあとは、タオルケットのめくれ落ちたベッドの上で居竦(いすく)まるよりほかなく、拡散され燃え広がるのを眺めながら推しの現状だけが気がかりだった。

 ここまで三つの段に分けるべきところを、まとめて一段落にする。それでますます密度が濃くなる。そしてなんと、これで最後まで行く。

 他の作家と同じく日本語というルールの中で、一人異次元の世界を描いている。それはちょうど藤井聡太の将棋が、ルールは同じでも、圧倒的なスピードをもって異次元の世界で勝負するのと同じことだ。

『推し、燃ゆ』の冒頭。「推しが燃えた。ファンを殴ったらしい」と始まる『推し、燃ゆ』(河出書房新社)の冒頭。「推しが燃えた。ファンを殴ったらしい」と始まる

推しを推すこと以外は、何もしたくない

「推し、燃ゆ」で芥川賞の受賞が決まり、記者の質問を受ける宇佐見りんさん=東京都千代田区芥川賞の受賞会見で記者の質問を受ける宇佐見りんさん=2021年1月20日

 第164回芥川賞を受賞した宇佐見りんの『推し、燃ゆ』(河出書房新社)は、文藝賞、三島由紀夫賞を受賞した第1作『かか』に続くものだ。

 高校生の「あたし」は、推しの「作品も人もまるごと解釈し続けること」が生きがい。そのためにテレビ、ラジオその他で推しの発言を聞き取ったものは、20冊を超えるファイルに綴じられ、それをもとにブログもやっている。「あたし」は推しを推すことが生活の中心で、その背骨の部分は揺るがない。

何より、推しを推すとき、あたしというすべてを懸けてのめり込むとき、一方的ではあるけれどあたしはいつになく満ち足りている。

 そんなとき推しがファンを殴ったのだ。世間の非難はかぎりない。

引退試合に負けたときに夏が終わったなんて表現するけど、あたしはあの日から本当の夏が始まったように思う。
もう生半可には推せなかった。あたしは推し以外に目を向けまいと思う。

 夏休みのバイトも居酒屋で、そのためだけに働いた。2学期が始まっても「あたし」は元には戻らなかった。教室で突っ伏すか、保健室で休んだ。「原級留置」と言われたのが高校2年の3月で、「留年しても同じ結果になるだろうから、と中退を決めた」。

 「あたし」は何もしないわけにはいかないので、働く意思は見せた。でも本当は何もしない。「あたし」は推しを推すこと以外は、何もしたくないのだ。

 ここで疑問が起こる。主人公は肉体または精神に、病を抱えている(ようなのだ)。そういうところが何か所かある。

あたしには、みんなが難なくこなせる何気ない生活もままならなくて、その皺寄せにぐちゃぐちゃ苦しんでばかりいる。

 これはまだはっきり病気と言えるかどうか。

 次の場面は、深夜に母と姉が居間で話しているのを盗み聞きするところ。

「ごめんね、あかりのこと。負担かけて」
〔中略〕
「仕方ないよ」姉はぽつりと言った。
「あかりは何にも、できないんだから」

 これではっきり病気だということがわかる。

 つぎは父親と話をする場面。

「じゃあなに」涙声になった。
「働け、働けって。できないんだよ。病院で言われたの知らないの。あたし普通じゃないんだよ」

 でも病気の内容はわからない。そして最後に決定的な記述がくる。

どんな道が待っているのか

shutterstockKINGDOMCITY/Shutterstock.com

なぜあたしは普通に、生活できないのだろう。人間の最低限度の生活が、ままならないのだろう。初めから壊してやろうと、散らかしてやろうとしたんじゃない。生きていたら、老廃物のように溜まっていった。生きていたら、あたしの家が壊れていった。

 そういうことなのだ。これは大変なことに見える。けれども「なぜあたしは普通に、生活できないのだろう」と、こちらに向かって投げられても困ってしまう。

 あるいはこれは、「あたし」よりも、作者に関わることなのか。第2作は最初から編集者がついたはずなので、ここでは著者と打ち合わせがあったはずである。こういう、いわば半端なところで納めたということか。その先は推測できない。

 ファンを殴った推しは、その後ライブコンサートの前に、結婚して芸能界を引退するという宣言をする。脱退ではなくて、グループのメンバー全員も解散するという。

とにかくあたしは身を削って注ぎ込むしかない、と思った。推すことはあたしの生きる手立てだった。業(ごう)だった。最後のライブは今あたしが持つすべてをささげようと決めた。

 そのライブが終わっても、「あたし」はピリオドが打てない。

 そこで「あたし」は、ある行動に出る。

 それを終えた後、次のステージに移る。

もう追えない。アイドルでなくなった彼をいつまでも見て、解釈し続けることはできない。推しは人になった。

 しかし次の段階は長い道のりである。

這いつくばりながら、これがあたしの生きる姿勢だと思う。
二足歩行は向いてなかったみたいだし、当分はこれで生きようと思った。

 その後にどんな道が待っているのか。いろんなところを這いつくばりながら、どんな世界を見せてくれるのか。しかし私は、這いつくばっていた主人公が、ある日突然、力をためて垂直に運動するのを、新たな文体とともに、ぜひ見たいと思っている。