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接待病の感染は贅沢な貴族社会の再来だ――高級官僚だった叔父を思いつつ

少数の人間が密室でことを決める「再封建化」

三島憲一 大阪大学名誉教授

夕方は宿舎に帰っていた読書好きの郵政官僚

1956年6月20日、空から見た東京都港区麻布狸穴町の在日ソ連漁業代表部(中央)の周辺。外務省は18日、「元ソ連代表部」を「在日ソ連漁業代表部」と公的機関と認めた。いずれの「代表部」も1952年4月28日のサンフランシスコ講和条約発効から56年10月19日の日ソ共同宣言までの“ソ連大使館拡大1956年の東京都港区麻布狸穴町周辺。左下が旧郵政省
 郵政省が麻布の狸穴(まみあな)にあった頃、こちらは学生だったが用事で本省に尋ねたこともある。母の妹の夫だから苗字は異なる。親戚の中ではファーストネームの愛称で呼ばれていたので、T叔父さんとでもしておこう。調べればすぐわかることだが、もちろんTは本当の名の頭文字ではない。

 T叔父さんは、内村鑑三系の熱心なクリスチャンで、かつ大変な読書家だった。1960年代、課長補佐か課長の頃に住んでいた、今から見ればみすぼらしい木造の、ダイニングキッチン以外には二間しかない公務員宿舎の玄関脇の大きな本棚には内村鑑三全集が鎮座していた。ページを括るといろいろと書き込みもあった。大学に近いので、泊めてもらったことがあるが、本棚にロングフェローの長詩『哀詩 エヴァンジェリン』(岩波文庫)を見つけて、一晩で読んだ記憶は今でも鮮烈だ。申し訳ないが、内村鑑三には興味が湧かなかった。

 物静かで、酒はほとんど飲まず、暇さえあれば本を読んでいる、いつも微笑みをたたえている方だった。生意気盛りの筆者が「大企業なんていうのは、掏摸(スリ)、強盗、かっぱらいといくらも変わらない」(この意見は今でも大きな変更はない)と言っても、ニコニコ笑って聞いていた。社交好きで口から先に生まれてきた、とよく言われた華やかな容姿の叔母との対照が親戚のあいだでもいつも話題だった。

 時々遊びに行ったが、夕方はいつも帰っておられた。局長になってからは吉祥寺の、これは大きな庭つきの立派な日本家屋の宿舎だったが、帰宅は早かった。ようするに接待など行かない堅物だった。まだまだ日本も貧しい時代だったから、接待文化もそれほどではなかったのかもしれないが。


筆者

三島憲一

三島憲一(みしま・けんいち) 大阪大学名誉教授

大阪大学名誉教授。博士。1942年生まれ。専攻はドイツ哲学、現代ドイツ政治の思想史的検討。著書に『ニーチェ以後 思想史の呪縛を超えて』『現代ドイツ 統一後の知的軌跡』『戦後ドイツ その知的歴史』、訳書にユルゲン・ハーバーマス『近代未完のプロジェクト』など。1987年、フィリップ・フランツ・フォン・ジーボルト賞受賞、2001年、オイゲン・ウント・イルゼ・ザイボルト賞受賞。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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