高木 達(たかぎ・とおる) 劇作家・脚本家・演出家
1950年福島県いわき市生まれ。劇団青年座所属。NHK-FMのオーディオドラマ『風の家』(1989年度イタリア放送協会賞)の脚本なども手掛ける。ストレートプレイからミュージカル、オペラと幅広い舞台を演出する。一般社団法人チームスマイル・いわきPIT劇場監督を務めながら、放射能汚染の現実を全国へ発信している。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
帰郷した劇作家、地域の移ろいを見つめて【上】
1Fから20キロ圏内に避難指示が出た夜、僕と妹家族は丘の上の中学校から町を見下ろしていた。
久之浜町は1Fから30キロ離れているが、放射性物質は北風に乗って飛散してくる、すぐ逃げなければ。そう考えて避難所の中学校を出たのだ。町は夜闇に沈んで輪郭も見えなかった。
久之浜は太平洋に面した穏やかな田舎町だ。岬と岬の間を一直線に伸びる水平線、湾曲した海岸線が岬と岬を結んでいる。海岸に沿って造られた防潮堤、そこから広がる6千人ほどの漁師町が僕の故郷だ。町なかを道路と線路が貫いている。海の近くを走るのが宿場町の面影を残す旧道、次は国道6号、そして山側を走るのが常磐線だ。
津波は旧道までの海沿いの家々をなぎ倒し、瓦礫からの出火が町の三分の一を焼き尽くした。だが、その惨状は闇に紛れて見えない。ただ、夜の大気に嗅いだこともない臭気が満ちている。焦げた材木のような、燃えた油のような、表現しようもない、生温かいべとついた臭い。それが体にまとわりついてくる。僕たちは逃げるように車を出した。
その夜、“道の駅ひらた”は避難してきた車でいっぱいだった。そこに村の職員が現れ、僕たちは石川町の体育館に収容された。そして、2日間の避難生活の後、迎えに来た劇団の車に乗って川崎のマンションに帰ったのである。
4月の半ばからは毎週末久之浜に通った、まるで何ものかに憑かれたように。震災で実家は焼失、僕の仕事場の家は一階が津波でメチャクチャだった。不思議なことに旧道の海側は焼けた瓦礫の原、反対側の町なみは以前のままだ。ほとんどの町民は放射能から集団避難して市の中心部の小学校に収容されていた。
後片付けは重労働だ。水に浸かった家具や家電を運び出し、床に積もったヘドロをかき出す。あの時は原発事故のことも忘れ、ただ家を元に戻すことだけを考えていた。元に戻せば以前のような穏やかな日常が戻ってくると信じたかったのかもしれない。家で暮らせるようにしなければ、その思いだけで30キロ先の1Fのことなど考えもしなかった。ましてやこの町に放射性物質が積もっていたことも。