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震災・原発事故から10年、置き去りの人たちを思う

帰郷した劇作家、地域の移ろいを見つめて【下】

高木 達 劇作家・脚本家・演出家

 震災後、福島第1原発から30キロの故郷、福島県いわき市久之浜町に帰り、地域と人々を見つめ続ける高木達さんが、この10年をつづる後編です。前編はこちら

2014 いわきで劇場と演劇教育を始動

 2014年は創設と邂逅の年だった。

 新作戯曲『愛と死を抱きしめて』の構想は固まったが、演劇団体がなくては公演もままならない。それなら、俳優の育成にも関わり、演劇公演を企画する制作集団を創設しようということになった。地元に住むT君を代表にして立ち上げたのがITP(いわき演劇プロジェクト)である。

 更に、磐城高校の同級生である〝ぴあ株式会社〞社長の矢内廣さんから市内の喫茶店に呼び出され、お話を伺った。一般社団法人チームスマイルを設立して東北の被災3県に劇場を建てる構想だ。岩手・宮城・福島の3県に劇場を建設して、エンターテイメントで被災地を元気づけようというのだ。

 福島県ではいわき市に200席の劇場を造る、劇場監督になってくれというお誘いだった。しかも、劇場支配人や顧問は高校の同級生だという。郷里を元気づけるためならと即座に承諾した。

 個人的な出会いもあった。いわき芸術文化交流館の小劇場で演劇を観た帰り道、偶然懐かしい人に遭ったのだ。

 僕が大学生、彼女が高校生の時に付き合っていた女性だ。その時は恥ずかしかったのか、声もかけずに別れたが、後日携帯番号を入手してデイトへとこぎ着けた。まさに45年ぶりの劇的な再会である。

 僕も彼女もバツイチ独身だった。出逢って3週間後には市役所へ婚姻届けを出しに行った。まるで映画のような展開に周囲もびっくりしたが、本人たちが一番驚いた。しかし、これで良かったのだ。その後の膨大な仕事をやり遂げるためには、精神的にも日常的にも支えてくれる伴侶が必要だったのだ。

 いわき演劇プロジェクト公演を演出しながら新作の執筆が始まった。更に新しい劇場・いわきPITの創設趣旨を基本に主催のプログラムを作らなければならない。

 原発事故から3年、市内にとどまった家族も避難した家族も、それぞれが迷いと不安を抱えながら生活していた。

 あの日、子供を連れて給水車に並んだ、子供を放射能に晒してしまったのではないのか。自主避難した都会から、夫は会社があるいわきに戻ってしまった、子供を抱えてどうすればいいのか。通学路の汚染に怯えた親たちは車で学校への送迎を始め、市中心部の災害公営住宅に住む子供たちはスクールバスで30キロ離れた学校に通った。大人の不安は子供たちにも伝染する。公園にも校庭にも子供たちの姿はなく、友達同士の行き来も途絶えた。子供たちは家に閉じ籠るしかなかった。

 このような子供たちをケアするための劇場でなければならない。小学校に出かけて行う「表現教育」は心の開放を、「コーディネーション・トレーニング」は体力増強と敏捷性アップを目的としたプログラムだ。市民参加の音楽劇、家族そろって楽しめるキッズフェスティバルやハロウィンパーテイ。オープニング公演『~いわき発、PITがつなぐ心の復興~岸谷香&渡辺敦子コンサート』の翌日には市民が参加するオープニングアクトを主催しなければならない。

『愛と死を抱きしめて』の舞台。2015年にいわき市で初演、17年にいわき市と東京で上演した=馬上雅裕撮影

2015 自宅のかさ上げ工事が始まった

 2015年は怒涛の年だった。

 いわきPIT開場に伴う様々なイベント、子供のためのプログラムの実施、音楽劇の公演、いわき演劇プロジェクト公演の演出、そして第2作目『愛と死を抱きしめて』の演出。特に開場してから三つの稽古が重なったのにはこたえた。音楽劇と2作目はいわきで稽古、群馬オペラ協会のオペラは前橋での稽古と実に280キロの移動だった。

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