「10年」という区切りがどこか勝手で空疎に響く
2021年03月11日
宮城県雄勝(おがつ)町にはじめて行ったのは1980年代半ばぐらいのことだ。石巻市内から車でおよそ60分。山沿いの細くうねる道が開けると、空の青さと同時に黒い家々が目に入って驚いた。入江が複雑に入り組むリアス式海岸ゆえ、多くの小さな湾と集落とを三陸海岸は抱えているけれど、そんな場所はほかになかった。
なぜ黒いのかというと、屋根や壁に、硯に使われる玄昌石を使っているからだ。雄勝は日本最大のスレート産地で、東京駅舎の屋根材はここで産出されたものなんだと地元の人は誇らしくいった。3・11を経てその風景はなくなった。
震災の前年に亡くなった祖父は、三陸海岸で海苔の養殖をなりわいにしていた。津波による甚大な被害によって、陸も海も地盤沈下し、様変わりしてしまった漁場や風景を知らずに旅立ってよかったさと、震災を運よく生きながらえた家族は、ふとした時に思い出して、誰にいうでもなくいう。
2020年6月、オープンしてまもない「雄勝硯伝統産業会館」、「雄勝観光物産交流館 おがつ・たなこや」を訪れた。両館は海辺のかさ上げされた高台の上に建てられていて、雄勝湾の狭く深い入江を一望することができる。
コバルトブルーの海とアスファルトや空き地との境目を、なぜ、と思うほど高い防潮堤がぐるりと縁取っている。高さは9・7メートル。穏やかな海を隠す巨大で分厚いスクリーンのように、町の中心部へとつづく約3キロメートルの防潮堤は、この土地に住む人の望みではないだろうなと直感的に思った。
雄勝を産地とする雄勝船越わかめがわたしは大好きだ。香りと肉厚な歯ごたえは代わりとなるものがなく、震災後の数年間、三陸の海産物がいかに美味いものだったのかをしみじみ感じた。この海でなければなせないことがあるのだと、今さらながら思った。
海をなりわいに生きる人は、海から目をそらしはしない。天候と海の様子をじかに感じて作業をどうすすめていくか判断する。そうして導き出す行程も行動も、言葉にして第三者に説明しきれないものだ。職人と同じように、肉体を使って身につけた技術は言語化しにくいけれど、知性の裏打ちがはっきりとある。だから、恵みも不漁も災害も内包する海を直視するだけの力量をもっている。
漁労は素朴な(しかし厳しい)肉体労働に見えるかもしれないが、収穫にいたるまでいかに多くの情報の積み重ねが必要か、ほとんどの人は知らないだろう。
海面下の地形、潮流、潮の干満、日々刻々と移り変わる天候や気温、風向きといった複雑な自然の事象を把握して数年〜数十年、身をもって得た経験と現在の気象情報やデータを照らし合わせながら海産物の生育状況や収穫の頃合いをはかる。
水温が上昇すれば潮流が変わりエサになるプランクトンが潮の流れに乗ってやってこないかもしれない。牡蠣や海苔の養殖網を投入するタイミングはいつがベストか。快晴でも強風であれば海に出ることはできないが、雲の流れからして数時間、風は凪いでいるかもしれない。
見るもの、聞くもの、肌で感じる空気、風向き、匂い。身体の感覚を軸にデータをかけあわせて自然現象の徴候を読み解くことで、海のなりわいは成立している。
祖父の朝は早かった。
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