被災地点描――土地の記憶とともに振り返る、東日本大震災と原発事故
2021年03月12日
1年ほど出かけるのを控えていた郷里の福島に2月、常磐線の特急ひたちと普通列車を乗り継いで行ってきた。降りたのは、浪江駅だ。実家は南相馬市小高区(旧小高町)の海ばた、いわゆる“在”にあり、近所の人が“町”に行くと言えば、小高ではなく、距離的に近い浪江の市街地を指していた。
私も便のいい浪江駅をいつも利用してきた。昨年(2020年)3月14日、最後の不通区間になっていた富岡・浪江駅間の復旧によって常磐線が全線開通し、1年遅れでようやく通しで常磐線に乗ることができたわけだ。
でも、ウキウキ気分とはほど遠い。大熊・双葉駅間はもともと複線だったのに、片方の線路が剥がされていたのを車窓から確認した。昨年、大宮の鉄道博物館で開かれた「常磐線展」を見に行ったとき、単線化したのは貨物列車をもう走らせないという意味もあると、学芸員が説明した。では、鉄道路線としては格下げになったのかと尋ねると、「そうも言える」という答えだった。
こんなことを思い出しながら浪江駅の改札を抜けようとすると、駅員がいない。無人駅になっていた。確かに格下げになってしまったかのようだ。
駅周辺の景色は、いっそう寂しくなっていた。以前なら駅舎を出て北側の正面を眺めると商店や飲食店などが軒を連ねていた。だが、いまや建物のほうが少ない。更地に伸びた茶色の枯れ草の合間からは、200~300メートル先の国道114号線のあたりまで見通せた。
駅前ロータリーの端にある旧国鉄バスの建物の1階で開店したカフェには、灯りが付いていなかった。コロナ禍で休業中らしい。浪江町役場のつくった最新の飲食店ガイド「なみえうまいもんマップ」には、なぜか店名が載っていない。浪江で会った人も存在を忘れていた。2018年の開店時には、私も利用したのに、もの悲しいばかりだ。
114号線のその先には、1文字だけ短縮したサンプラが地元での愛称だった、サンプラザというショッピングセンター(SC)があった。かつて浪江駅からすぐのところで洋品店を営んでいたマツバヤという店を核店舗に、協同組合のかたちで開設され、床面積8000平米を超える売り場が広がっていた。開業したのは1979年と、相双地方(相馬と双葉の総称)ではおそらくはじめてのSCであり、浜通り全体でも今年2月末に閉店したいわき市のイトーヨーカドー平店(71年開業)に次ぐ老舗SCとして存在感を誇っていた。母が私の息子のためにランドセルを買ってくれたのもサンプラザであった。
ところが、サンプラザの近くまで行ったら一面更地になっているのを目のあたりにした。本館を囲むように建っていた専門店の建物を含めて何もない。10代のころからよく利用し、震災後は定点観測的に見てきたマツバヤ書籍部の入居していた建物も、跡形がなかった。
以前、書籍部はどうなるのか、避難中のサンプラザの事務所に問い合わせたときには「建物は大規模半壊。いずれ取り壊します」とのことだった。でも、荒廃しつつも建物は残り、そのまわりでは除染が行われていた。もしや再開もあり得るのではと思っていたものの、はかない希望に過ぎなかった。
街中にあった郡書店の建物も撤去されていた。やはり取り壊し予定と間接的に聞いていたので、とうとうその日がやってきたのだなと思った。
郡書店はとりわけ思い出深い本屋である。私が10代だった1980年前後には
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